北欧スウェーデンでは、公共施設を建設する際、その総費用の
1%をアートに充てなければならない。
この法律は、今から80年以上前の1937年に設けられた。
誰もがアートを享受でき、建物の文化的価値は高まり、
アーティストには活動の場が与えられるという考えだ。
この動きは、形を変えつつ、世界に広がっていった。
同様の取り組みが、とりだい病院でも始まっている。
時計の針を一年以上前に戻す。
2020年11月16日、夜7時。病棟前の駐車場に停めたバンから画材を詰め込んだワゴン、脚立などが運び出された。行き先は4階の手術部である。片付けや準備で行き交う看護師や臨床工学技士の姿はあれど、夜の手術部は静かだった。手術着に着替えた朝倉弘平と3人のアシスタントが手術部の廊下に現れる。清潔区域であるこの場所で作業するには、ガウンを羽織るか、手術着に着替えるしかない。壁画が完成するまでの期間、この手術着が朝倉たちのユニフォームになった。
朝倉は1983年、宮城県仙台市で生まれた。子どもの頃から絵を描くのが好きだったという。高校は美術科に進み、卒業後、東京でアパレルデザインを学んだ。2007年から絵画制作を本格的に始めた。2013年、妻の出身地である鳥取県米子市にIターンし、現在は自然豊かな大山の麓で生活しながら、自然や動物、生命の営みなどを描き続けている。
12の手術室をぐるっと囲む真っ白な壁に絵を描いてほしいと提案したのは、手術部の庄川久美子看護師長だった。
これから手術に入る患者さんの緊張や不安がアートを見ることでいっときでも軽減できるように、そして、スタッフには自分の職場に愛着を持ってもらいたいとの思いだった
まずはプロジェクターで投影した下絵を壁に映し、輪郭を描いていく。そして、調色した絵の具で、3日目から色塗りを開始した。製作時間は手術室の使用が少ない、夜7時以降と限られていた。
朝倉の思いはこうだった。
「窓がなく、白い壁に囲まれた日常とはかけ離れた空間。生活の延長線になるよう風を感じる絵を描きたい」
制作には、手術部で働く看護師や医師も関わることになった。朝倉には、もともと、この絵を毎日見ながら働く人たちと一緒に作り上げたいという思いがあった。
「医療現場ということもあり、はじめは無理だろうと思っていました。たまたま通りかかった一人の看護師に〝一緒に塗りませんか?〟と声を掛けると〝やりたい!〟と喜んで筆を持ってくれたんです」
そして仕事の合間や見学に来たスタッフたちが次々と参加した。
ある夜のことだった。
深夜に差し掛かろうとした頃、小さな男の子がベッドで運ばれてきた。朝倉たちは作業を中断して、ベッドの通り道を作った。傍らの医師が「ほら、お魚さんだよ」、そして母親が「きれいだねぇ」と子どもに声をかけた。男の子はじっと絵を見つめていた。
夜中の緊急手術。静寂のなか運ばれるその視線の先に柔らかい光にあふれた絵があった。少しでも彼の心は安らいだだろうか。この夜、3人の子どもを持つ父親でもある朝倉は明け方まで一人残り、手術が無事に終わるようにと祈る思いで描き続けたという。
13日間の製作期間で絵は完成。とりだい病院のホスピタルアート(壁画)は、この朝倉の絵で三作目となる。
第一作目は2018年末、鳥取大学地域学部で芸術を専攻する学生たち5人が制作した。制作途中、患者さんから労いの声を掛けられたり、職員から差し入れがあったりとコミュニケーションが生まれた。がんセンターに化学療法に通うある患者さんは「この廊下を通る時はいつも足取りが重かったんです。でもこの絵が出来てからは、明るい気持ちで治療に向かえるようになった」と話してくれた。
二作目は、2020年夏、奈良を拠点に活動する画家、武内祐人が小児病棟の壁面に愛らしい動物の絵を描いた。その様子を入院中の子供たちが目を輝かせながら眺めていた。
ホスピタルアートの価値は、出来上がった作品にあるばかりではない。制作過程を共有することで「誰かが描いた絵」ではなく「私たちのアート」に昇華する。
こうしたとりだい病院の試みは、病院長である原田省の「患者さんにも職員にもやさしい病院でありたい」という思いから始まった。
病気を抱え、緊張や不安を感じながら通院したり、入院生活を送る患者さんにとって、機能的ではあるが無機質な真っ白い壁はどう映るだろう。日々忙しく働く職員が、ふっと息をつく場所はあるだろうか。そんな目線で院内を眺めていたという。
とりだい病院の病棟は築30年、外来棟は築25年と、老朽化が進んでいる。古びていく病院を、患者さんにとって温かみがあって居心地のいい場所、職員が快適に働ける場所にするためにはどうしたらいいか。そんなとき、ホスピタルアートについての講演を聴いた。病院の壁や天井に絵画を描くホスピタルアートをとりだい病院にも導入したいと考えたのだ。
とりだい病院では、壁画以外にも院内各所で絵画や写真などアートを楽しむことができる。
外来棟1階と2階のがんセンター前には、本紙『カニジル』の写真を撮影するフォトグラファー中村治の作品が展示されている。ミャンマーとネパールで撮影した写真は、色も鮮やかで現地の空気が感じられ、そこに写る人の息遣いまで聞こえてきそうだ。
外来一階通路の「外来ギャラリー」では、地域で活動するアーティスト、趣味でアートを楽しむ人たちの作品を月替わりで展示している。昨秋は、広報誌『カニジル』8号の企画「とりだい病院スタッフが撮った山陰のインスタ映え」とリンクした作品も展示した。
そのほか、外来玄関近くに日本初のノンフィクション、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)をテーマとしたセレクト書店「カニジルブックストア」がオープンした。これも病院にしっかりした書店がほしいと原田が温めていた企画が元になっている。
病院というところは、何一つ自分の思い通りにいかないところである。診察だ、検査だと指示があり、その度に待ち時間も生じる。入院する患者さんも普段の生活よりもはるかに長く感じる一日を過ごしているだろう。
患者目線で病院をみて、原田はこう考えたという。
「病院で感じる不自由さを本が多少なりとも解消してくれるのではないか。採算を重視すれば、こういった書店は開けない。思いがけない出会いがある、読み応えのある本が並ぶ、これこそ病院という場所にふさわしい本屋だ」。
院内のベーカリー「メーランモール」は病院のなかで最も賑わう場所だ。パンを買うためだけに病院に来るという市民も多い。
さらに今年2月、外来玄関前に新たな施設が完成する。
1階には調剤薬局とコンビニ、3階は宿泊施設。遠方から治療に来ている患者さんに付き添う家族が利用できる。そして2階には、約100人が収容できるホールがあり、市民公開講座はもちろん、コンサートなどもここで開催出来る。
鳥取県西部地域に現在では1館のみとなった映画館。とりだい病院のホールをミニシアターとして定期的に優れた映画を上映しようという企画も進んでいる。
とりだい病院は、この地域で最も人が集まる場所である。医療というキーワードで集まる患者さん、その家族、職員、店舗や出入りの業者など、その滞留人口は一日約五千人。医療以外の文化的要素が加わると、単なる「病院」ではなくなり「パブリックスペース(公共空間)」になる。
普段、美術館に展覧会を観に行くことはないけれど、診察に来た病院でアートに触れる。読書の習慣はないけれど、待ち時間に書店で時間をつぶす。そこで読みたいと思える本が見つかる。そんな意図しない出会いが病院という場所で持てたら素晴らしい。
とりだい病院は高度で安心な医療を提供するだけではなく、文化発信を担っていく、多様なこれからの病院の在り方に挑戦している。