鳥大の人々
副病院長・看護部長 中村 真由美
IT技術がどんなに発達しても、
看護師にしかできないことがある

写真・中村 治


中村 真由美

とりだい病院の看護部は約900人が在籍している院内最大組織だ。束ねるのは副病院長であり看護部長の中村真由美である。常に看護師たちの力を引き出すことに心を砕いている彼女も、「若い頃はプライベートのことばかり考えていた」と笑う。そんな中村が看護師に求められるものを考えるきっかけになったのは、産婦人科病棟での経験だったという。



(これ、本物の赤ちゃんだったら、私はできるだろうか)

目の前では講師が人体の模型や赤ちゃんの人形を使って、出産の手順を説明していた。すでに出産の手順はビデオで理解していたつもりだった。出産とはつつがなく子どもを取りあげて当たり前。何か失敗をしたら取り返しのつかないことになる。母子の後ろには誕生を楽しみにしている人たちがいる。その責任を感じて、突然怖さが湧き上がってきた。

1983年春、京都大学医療技術短期大学部に入学直後、実習が始まったときのことだ。

中村は1961年に米子市で生まれた。はっきりと看護師になりたいと思ったことはない。女性として自立して生活するため、手に職をつけなければならない。看護師は一つの選択肢となった。

「自分が看護に携わるというイメージはなかったんです。進路を決めなきゃいけなくなったとき、担任の先生から(鳥取大学)医療技術短期大学に行けば、看護師はもちろん、助産師にもなれる。(卒業後、編入して)大学に一年行けば養護教員にもなれると言われました。保健室の先生もいいかもねぇっていう軽い気持ちでした。何より自宅から自転車で通える距離に学校があったんです」

鳥取大学医学部附属病院の産婦人科の実習で分娩を見学、心を動かされた。

「感動しました。生命の誕生に立ち会えるって素晴らしいと思いました」

鳥取大学医療技術短期大学部を卒業後、助産師の免許を取得するため、京都大学医療技術短期大学部に進んだ。

「(鳥取大学医療短大の実習では)あくまでも見学者だから、後ろで見ていて子どもが生まれて、ああ良かった、でした。ところが自分が主体的にやることを考えたら、はたと、怖っ、みたいな。赤ちゃんを自分一人で本当に取りあげることができるんだろうかって」

人形での実習の後、先輩の助産師と一緒に出産の現場に入ることになった。

「二人羽織みたいな形で一緒にやってくれるんです。そのときは夢中でやっているので怖くはなかったです。実際にやっていると徐々に慣れて上達してくる」

新生児の心拍などに気を配りながら、母体に傷がつかないよう新生児の身体の位置を動かして取りあげる。それが助産師の技術である。力は必要ないんです、と中村は言う。

京都大学医療技術短期大学部を卒業、助産師の資格を取り、故郷の鳥取大学医学部附属病院の看護部に入職した。

「二十代は、仕事よりもプライベートのことばかり考えてました。産婦人科は明るい先生(医師)が多いので、よく飲みに連れて行ってもらいました」

今は(部下に)しっかり仕事と向き合いなさいと言う立場ですけれど、私自身は遊んでばかりでしたね、と笑った。

中村が入職してしばらく、とりだい病院は『産婦人科』として〝産科〟と〝婦人科〟が同じ病棟だった。出産を扱う産科はおおむね明るく、成人女性の病気を扱う婦人科はやや陰がある。産婦人科の看護師は、光と陰の世界を行き来することになる。

あるとき、中村はがんを患っている患者を担当した。

「なぜ自分ががんにならなくてはならないのかと苛々している。その怒りをどうにかしてあげたいんだけれど、若かったからどうしていいのか分からない。頑張れなんて絶対にいえない。だって患者さんは頑張っているんです。簡単な言葉を掛けることはできない。怖いな、そばに行きたくないなって、思ったこともあります。今となってみたら、何も言わなくていいんです。そばにいて、あなたのことをすごく心配していますという気持ちが伝わればいい。沈黙は苦しいけれど、患者さんが話をしたいと思ったときに、何も言わずに聞けばいい」

のちに産科は、総合周産期母子医療センターとして独立、婦人科は泌尿器科との混合病棟となった。助産師である中村は、婦人科の現場に関わらなくなったが、看護師に求められるものは何かと自問した時間は貴重だったと振り返る。

「医師は忙しい。そしてどうやって治療すればいいのかを考え続けています。看護師や助産師は24時間交代制勤務で、いつでも患者さんのそばにいるのが役割。患者さんの話を聞いて、支えてあげる、それも看護師の大切な仕事」

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