鳥大の人々
放射線部 診療放射線技師長 山下 栄二郎
逃げてばかりいたぼくは
ここで「医療人」となれた

写真・中村 治


山下 栄二郎

放射線部は、放射線を用いて画像診断や治療を行う診療放射線技師が在籍する部署である。この放射線部を技師長として、とりまとめているのが山下 栄二郎だ。業務の傍ら、大学院に入り直し、英文で論文を執筆。医療、検査へ秘めた情熱を持つ男である。しかし、若いころは生身の人間と向き合う覚悟がなく、とりだい病院に入ってからも放射線技師を辞めることばかり考えていたという——。



多くの人間は、高校卒業する18才のとき一つの分岐点に立つ。就職、進学、あるいはどの学部に進むのか。この選択が時に一生を左右する――。

鳥取大学医学部附属病院の放射線部、山下 栄二郎が、大阪大学医療技術短期大学部、診療放射線学科を選んだのは、軽い気持ちだった。

「就職するならば技術者みたいなイメージがありました。技術者になりたいというよりも、仕事ってそういうものだと思っていました。理系コースにいたし、オーディオが好きで、電気系の学科に行くつもりでした。受験雑誌をめくっていたとき放射線学科に目が留まったんですね」

原子力発電には未来があるとどこかで耳にしたこともあった。放射線を学んでおけば、電気系の技術者になる助けになるだろうと思ったのだ。

ところが入学してみると事情は違っていた。

「もちろん放射線のことも学ぶんですが、医療の授業もある。解剖とか生物学とか全くついて行けないわけです。(医療に関する)漢字も難しい。ぼくは(短期大学卒業後の)一つの選択肢が放射線技師だと思い込んでいました。ところが、この学校を出ると、ほぼほぼ放射線技師になるんですね。医療というのは寛大な心や優しさが必要。果たして自分にそんなことができるのか、自信がなかった。生身の人間を相手にするイメージがなかった。医療人になる覚悟は全くなかった」

入学当初は、好成績を残して四年制大学に編入、他の道を模索することも考えていた。

山下 栄二郎

「でも、ぼくはサボり癖というか怠け癖がある。3年間ずるずる、なんとなく過ごしたので、とても編入なんてできる成績ではなかった。そして卒業後、民間病院に就職しました。(就職先を)選べるほど優秀ではなかった。採用して頂いたことを感謝しないといけないぐらい」

ところが、山下はこの病院を約8ヶ月で退職した。その理由を若気の至りであったと頭を掻く。

「大学に入ったときも編入するとか勢いづいていた。この病院に入ったときもまた張り切ってしまったんですね。本当に失礼な話なんですけれど、この病院にいたらぼくの成長はないって思い込んでしまった。同級生たちは大学病院など大きなところに就職していた。ぼくは(卒業前)そんなところに行ってもついていけないしって、避けたんです。でも彼らから何々の検査をやっているとか聞くと焦る」

恩師に相談すると、兵庫県内の病院を紹介された。この病院と平行して、たまたま募集していた鳥取大学医学部附属病院も受けることにした。

「自分の基準がブレブレで恥ずかしいんですけれど、ぼくはカニが好きなんですね。子どもの頃、家族で鳥取へ観光に来て、カニを買ったことがあった。兵庫県の病院は山間部で雪が降ると聞かされていた。雪は嫌じゃないですか。岡山県人にとっては兵庫県よりも鳥取県の方が身近なんです。関西って言葉も違うし、(人間の)タイプも違う。山陰だったらついて行けるかな、カニも食べられるしって、安易に鳥取を選びました」

海に面した米子市も豪雪地帯であるという知識さえなかったのだ。そして、とりだい病院に入ってからも、数年間は辞めることばかり考えていた。

「自分探しではないですけれど、ぼくはここにいるべき人間じゃないと思っていた。言い訳ばっかりして、逃げてばっかりいた。放射線技師自体をやめようと思っていたんです」

そんな山下の転機となったのが、ある機器――MRIとの出会いである。

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