鳥大の人々
救命救急センター 教授 上田敬博(たかひろ)
救急医療に「スーパースター」はいらない。 味方が失敗したら仲間がカバーする組織が一番強い。

文・田崎 健太 / 写真・中村 治


上田敬博(たかひろ)

2020年4月から鳥取大学医学部附属病院 救命救急センターに新しい教授が就任した。熱傷のスペシャリストとして多くの命を救ってきた救急医療のエキスパートだ。現在、とりだい病院の救急医療を全国トップレベルにするためチームをけん引している上田の原点は、阪神大震災の体験にあった。



その日、上田敬博が床を出たのは、いつもより早い、朝5時半だった。夜、大阪城ホールでビリー・ジョエルのライブが予定されていた。窓口に並んだ甲斐があり、上田はいい席を手に入れていた。大好きなビリー・ジョエルを間近で見られると興奮して眼が覚めたのだ。

そして5時46分、地面が激しく揺れた。これまで体験したことのない揺れだった。自分の部屋はマンションの一階である。それでもこれだけ揺れるとは、もう終わりだ。

(お父さん、お母さん、ごめんなさい)

と心の中で呟いた。

95年1月の阪神淡路大震災である――。

幸い、上田の住んでいた一帯は倒壊などの被害はなかった。近畿大学医学部の二回生だった上田は、震災の約一ヶ月後に神戸市長田地区にボランティアとして入った。

そこで目の当たりにしたのは、心の傷ついた人たちだった。

「旦那さんだけが瓦礫の中に埋まって亡くなってしまったという60才から70代の女性がいました。お二人の間に子どもはなかった。一人残されたことが悲しかったんでしょう。なんで自分だけ生き残ったのだろう、寂しい、死にたいってずっと言っていた」

上田たちは交代で彼女を見守るために家を訪問することにした。しかし、彼女は夜中に手首を切り、自殺した。

「何もできなかった。自分たちがやっていたのは単なるパフォーマンスというか自己満足やったんかなと思った記憶があります」

上田は71年に福岡市で生まれた。父親は九州大学の勤務医だった。幼稚園のとき、父親の医院開業に合わせて北九州市に一家で移った。

男の子にとって父親は最初の壁である。上田の前に立ちふさがったのは、とてつもない高い壁だった。

「九(州)大に行くような賢い人で、IQが高くて、何かを読んだらすぐに覚えてしまう。五カ国語ぐらいできるんですよ。外科(医)出身で、手先が器用」

彼は患者に寄り添う医師でもあった。深夜に患者から痛みに耐えられないと呼びだされ、上田は往診に付き添ったことがあった。鎮痛剤を打ち、これで帰れると思った。ところが父親は腰を上げない。鎮痛剤が効くのを確認してからでないと帰れないというのだ。患者のことを第一に考える男だった。

そんな父親とひき比べて上田は劣等感を抱えていた。

「小学校のとき掛け算を覚えるのがクラスで一番遅かった。サッカーやラグビーをやっていたけれど、頭抜けているわけじゃない。ドジでのろまな亀だって自分で分かっているんです。そして不器用」

強く地面に叩きつけられたのは、大学受験のときだ。父親の母校、九州大学医学部を受験したが不合格。三浪の末、近畿大学医学部に進むことになった。

「大学に入ったとき、(国立大学信仰のある)親から医者になっても認めへんって言われたんです。これは見返さないといけないって、勉強しました。一般教養の基礎医学も臨床医学も全部、成績は良かったです」

まだ世の中にはバブルの残り香があった。高級外車を乗り回す同級生の中で、上田は汗をかきながら自転車で大学に通った。そして、夏や冬の休暇期間は、研究室に入り浸っていた。珍しい学生だと呆れ気味に褒められたこともあった。

阪神淡路大震災の被災地には、大学卒業するまで通っている。ただ、卒業後は、父親のつてを頼って、九州大学に入り、心療内科に進むつもりだった。心療内科は、内科的症状を呈する神経症や心身症を治療対象とし、内科治療とともに心理療法も行う。

「心療内科では精神面からアプローチする傾向が多い。せっかく関西にいるんだから、まずは一般内科、一般外科を市中病院で勉強したらどうかと当時の(九州大学の)医局長に言われたんです。そこで、震災のとき一番頑張っていた、東灘区の東神戸病院に行くことにした」

この東神戸病院で上田は救急医療の熱病に冒されることになる。

「ものすごく熱かった。みんなで助け合うという雰囲気があった。ぼくは週五(日)、病院に泊まっていました。月曜日に五日分の下着を持って行き、週末に洗濯物を持って帰る。若いときって、失敗も成功も自分の経験になる。何事もプラスになることが分かったので、そこから遠ざかるという選択肢はなかった」

経験を積んで心療内科に進むという当初の目論見はすぐに霧散していた。

「しんどいことをやるというのは、最初は眼中になかったんですけれどね」

と上田は照れたような笑顔を見せた。



上田敬博(たかひろ)
自分は不器用だと分かっている。だから努力するんです

救命医として患者に向き合う重さ

関西で救急医療に関わっていた上田は〝大事故〟とも縁がある――。

大阪府立千里救命救急センター時代の2001年6月、大阪教育大学附属池田小学校で小学生を無差別殺傷した附属池田小事件が起こった。

「そのときはペーペーだったので、そんなに患者さんとか家族に関わるというところまではなかったです」

そして、2005年4月兵庫医科大学病院救命救急センター時代にはJR福知山線脱線事故――。

「ぼくは何人か患者さんを受け持っていたんです。その中の一人の若い女性が、お母さんとおばさんと一緒に乗っていて、2人が亡くなってしまった。彼女は背中を50針ぐらい縫ったけれど助かった。なんで自分だけ生き残ったのか、自分なんか死ぬべきやった、生きたらあかんかったと責めていた。震災のときと同じです」

彼女はCT(コンピュータ断層撮影)検査装置の中に入ると絶叫した。狭い場所に閉じ込められると事故の記憶が蘇ってくるというのだ。

「頑張れって言えないじゃないですか。まだ未熟で言葉がなかった。完全に同じ感情になるとか、同じレベルの悲しさになるのは無理じゃないですか。とにかく相手に期待せず、話を聞くしかない」

2019年7月の京都アニメーション放火殺人事件では、上田は容疑者の治療を担当した。彼は90パーセント以上の全身火傷を負っていた。最初に診察したとき、命を助けるのは難しいですと、上田は京都府警の警官に言ったほどだった。

上田は容疑者を裁きにかけなければ、亡くなった方たち、遺族が悲しむと必死で治療した。その過程で加害者と向き合った。当初投げやりだった加害者は次第に上田に心を開くようになったという。

救急医療は、時に患者の〝毒〟を飲み込む。その重みに耐えきれず、精神的に参る、そして自殺を選ぶ医師もいる。

「緊張感が常に高ぶっているというのも原因の一つ。そしてもう一つは優しい人だからと思うんです。ぼくはもちろん悩むけれど、切り換え、割り切ることが出来る」

その割り切りを身につけたのは2001年に尊敬する父親を失ったときだった。

「父親が亡くなったとき、これより悲しいことはないなって思ったんです。そこでぼくは泣かなかった。それ以来、すごく冷静というか、感情を押し殺す癖がついてしまった。しゃべらへんかったら、感情がないというか、むっちゃ冷たく見えると言われますね」



とりだい病院救急医療の改革

2020年3月、上田は鳥取大学医学部附属病院の救命救急センター教授に就任。とりだい病院の救急医療を立て直して欲しいという打診を受けたのだ。

「100人いたら99人やめとけ、絶対に上手くいかないって言われたでしょう」

上田は入局前、密かにとりだい病院を視察している。それも計5回、だ。

「まずナースがどんな感じで働いているのか、一生懸命業務に取り組んでいるのか。雰囲気で分かるじゃないですか。まず感じたのはポテンシャルはあるということ。吸収したいという欲求も感じた。伸びるという確信があった。声を掛けていただく機会というのは誰にでもあるわけではない。やってみようと」

まず手を付けたのは、治療方針の徹底だった。

「(治療)ガイドラインや(論文等の根拠あるデータである)エビデンスをベースにして治療する。それらを知った上で意見を言って欲しい。前の施設がこうだったから、とかそういうのはあかんと。そして、理屈が合っていればそこからずれてもいい」

そしてガイドライン等に則っていれば責任は自分が取ると言い切った。やがて、この病院の強みと弱みは表裏一体であると上田は考えるようになった。

「山陰では高次医療を行えるのはここだけ。最後の砦としての責務は重い。ただ、最後の砦という意味で、あぐらを掻いていた面も否めない。あと、すぐに自分たちは山陰だから、米子だからと口にする。でもそんなん関係ない。ネットも物流も発達している。地域のハンディキャップは実はなくなっている」

山陰という言い訳をして、限界を設けているのは自分たちではないのか。そういう言い訳はやめようと上田は言い続けることにした。その上で、こう宣言した。

ガチでとりだい病院の救急救命は全国でトップレベルを目指す、一、二年でそこまで持って行く、自分は本気だ、と――。

「ここにはドクターヘリもドクターカーもある。都市部に行かなくても、救命救急はここで勉強できる。都市部で働いていたぼくが言うんだから間違いない」

とりだい病院に赴任して一年が過ぎた。今、上田には確かな手応えを感じている。例えば、以前、人工心肺装置――ECMO(エクモ)は年に数回程度の使用だった。ECMO使用の必要がある患者に対して尻込みしてしまい、県境を越えて他病院に搬送したこともあった。現在、ECMOはほぼ毎月、稼働している。

「学会発表、論文がすごく増えているんです。自分がチェックするから出そうと言ったら、みんな書いてくるんです。なかなかそんな病院はないです」

自分が目を通す時間がないので待ってくれと頼んでいるんですよと、微笑んだ。

「山陰って、控えめな文化と関係あるのか、新しいことはやりたがらない。でも軌道に乗るとばーっとやってくれる。最近は本当に頼もしい。ぼくのお陰とかじゃなくて、もともとポテンシャルはあったんです。スポーツと同じでちょっとしたコーチングで人は伸びる」

上田が念頭に置いているのは、彼の愛するスポーツ、ラグビーである。

「ノックオン(というファール)をした人を怒るんじゃなくて、そのボールを拾ってサポートすることが大切。味方が失敗したら、なんで失敗すんねん、じゃなくて自分がカバーしようという組織が一番強い」

救急医療にはスーパースターなんかいらないんですよ、と付け加えた。上田の理想は、強いラグビーチームのように、アンサングヒーロー――〝無名の英雄〟の集まりなのだ。



文・田崎健太
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)『電通とFIFA』『真説・長州力』『全身芸人』『ドラヨン』『スポーツアイデンティティ』など。4月20日に『真説佐山サトル』文庫版(集英社)が発売。小学校3年生から3年間鳥取市に在住。2019年、『カニジル』編集長に就任。

上田敬博
福岡県福岡市生まれ。1999年近畿大学医学部卒業。2014年兵庫医科大学 医科学研究科(生体応答制御系)修了。医学博士。2020年4月より鳥取大学救命救急センター教授に就任。広範囲熱傷の救命・治療に力を入れている。福岡県福岡市出身。