未知なる大海 「脳」と「心」の世界

文・三宅 玲子 / 写真・中村 治


脳と心
「手術しておわりではない。人とのつながりに支えられている」(写真左・黒﨑教授)

同居する親が急に怒りっぽくなった——。どこの家庭でもあるごく日常の出来事だ。見る限り、父親はほかには体調も生活も何ら変わりがない。親父も年をとったなあ、などとやり過ごしたとしても不思議ではない。ところが、こうした性格の変化に脳内の異変が関わっている場合がある。また、新型コロナウイルスによって、心の病気—— うつ病が増えたという報道もある。このうつ病は脳と関係があるという。身近でありながら知らない、「脳」と「心」——。

脳機能を温存するための「覚醒下手術」

手術灯が医師の手元を照らしている。全身をシートで包まれた患者が手術台に横たわる。全身麻酔により既に意識はない。2人の医師が頭蓋骨を開くために穴を開ける作業が始まった。

ドリル音が室内に響く。

手術台の脇には30インチほどのモニターが設置されている。カメラで撮影した脳内のある部位を映し出すのだ。

これから覚醒下手術が行なわれる。覚醒下手術とは、手術中に患者を起こして意識がある状態で行なう特殊な手術だ。

患者は2時間後に覚醒する予定だという。全部で8時間ほどかかる大手術だ。

全身麻酔をした患者を手術中にわざわざ起こすとは、一体どういうことなのだろう。

私たちは前日に脳神経外科の黒﨑雅道教授に手術のあらましを聞いていた。黒﨑教授によると、脳腫瘍(のうしゅよう)は、腫瘍が脳のどの部分にあるかによって、術後に起こり得る合併症が異なる。例えば、手足を動かし言葉を喋る機能を司る「前頭葉」の悪性腫瘍を取る際に前頭葉の組織も一部取り除くことになる。そこで、手術の途中段階で患者が意識を取り戻した状態にし、発語や手足の動きに影響が出ていないかどうかを確かめながら慎重に除去を進めるのだ。

覚醒下手術は命を救うだけでなく、患者の社会生活を見据えた機能温存を最大限に図る、比較的新しい手術手法だ。1995年、当時鳥取大学医学部脳神経外科の堀智勝教授が関連施設で日本で初めて施術。現在は全国約50の病院で行なわれているという。

脳を扱う難しさの一つは、異変の原因がつかみづらいところだ。そう黒﨑教授は指摘する。

「脳腫瘍は、腫瘍ができる場所によっては、性格の変化やそれまでになかった言動が見られるようになるなどの異変が起こります。最初は脳腫瘍と分からずに精神科を受診された患者さんが、MRI(核磁気共鳴画像法)を撮ったところ腫瘍が見つかって、我々脳神経外科に紹介されることは珍しくありません」

脳に腫瘍ができることによって、怒りっぽくなる、物忘れがひどくなるなど、性格に影響することがある。そのため、短絡的に老いと結びつけるのは、ときとして脳の異変を見逃す危うさにつながるという。

そもそも脳とは何か——。

医学的に定義すれば、頭蓋骨の中にある神経細胞の集合体である。

脳と心

人間の脳は脊椎(せきつい)動物の進化の初期段階では、単に神経細胞が集まったコブのようなものに過ぎなかった。進化の過程で大脳、間脳、中脳、小脳、延髄、脊髄から構成される複雑な構造を成し、高度な精神活動を司るようになった。感情、思考、生命維持その他、神経活動の中心的、指導的な役割を担っているのだ。

そして、脳には人体の他の部位とは決定的な違いがある。

心臓、肺、腎臓などの臓器はその役割がほぼひとつ。一方、脳はさまざまな部位から成り立っており、それぞれ異なる働きをしていることだ。

脳内に起きた異常から引き起こされる病気は幅広く複雑だ。認知症、パーキンソン病、てんかんといった内科的なアプローチを主とする病気から、脳腫瘍をはじめとする外科手術を含めた治療を行なうものまである。内科治療が中心とされるパーキンソン病やてんかんが、病状や条件によっては脳外科治療で回復することもある。

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