鳥大の人々
病理診断科 講師 野坂加苗
とりだい病院の病理医は盛岡生まれの「虫めづる姫君」

文・田崎 健太 / 写真・中村 治


野坂加苗

「病理医」とは一般に馴染みのない職業であるかもしれない。しかし、がんの確定診断は病理診断医にしかできない。病院の重要な一部門である。研究である「基礎医学」と患者を診る「臨床」の橋渡し、と称されることもある。普段、表に出ない彼ら、彼女らは何を考え、何を悩んでいるのか。そこには外からうかがい知れない物語がある——。



図鑑をはじめとした本を読み耽っていた少女時代、野坂加苗がもっとも気に入ったのは『堤中納言物語』の『虫めづる姫君』だった。

堤中納言物語は平安時代後期から鎌倉時代の物語が集められた短編集である。編者は不明、虫めづる姫君の作者、書かれた時期も分かっていない。

主人公は按察使(あぜち)の大納言の娘。何不自由なく育てられた〝姫〟の趣味は、昆虫観察だった。昆虫を採取し、脱皮したり羽化したりする様を観察するのだ。中でも気に入っていたのは、毛虫だった。毛虫を手に這わせてじっと見つめる様を、姫に仕える侍女たちは気味悪がった。そこで姫は虫をこわがらない身分の低い男たちを呼び寄せて一緒に遊ぶようになった。また彼女は、涼やかな外見にも関わらず、化粧などで身を飾ることに興味がない。年頃の娘がそれでは外聞が良くないと両親が苦言を呈すと、彼女はこう返す。

「世間で、どういわれようと、あたしは気にしない。すべての物事の本当のすがたを、深く追い求めて、どうなるのか、どうなっているのか、しっかり見なくちゃ。それでこそ因果関係もわかるし、意義があるんだから」(光文社古典新訳文庫版)

野坂もまた昆虫が好きで、友だちは男の子ばかりだった。

小学生時代のことだ。野坂は岩手県南部に住む祖母を訪ねた。庭にいた蜘蛛を見て、野坂は「あっ、でっかくて格好いい蜘蛛がいる」と大きな声を出した。ジョロウグモは野坂が住んでいた岩手県中部の盛岡市には棲息していなかったのだ。

「図鑑にジョロウグモの(出す)糸は金色って書いてあったんです。金色の巣見たーいって思っていたんです。わぁ、これがジョロウグモの巣かって、感動したんです。確かに巣は金色に見えた。それで家に連れて帰って庭に放したんです。そうしたら、卵を持っていたみたいで、大繁殖しちゃった。近所がジョロウグモだらけになってしまった」

それですごく親に怒られました、とハハハと声を上げて笑った。ジョロウグモは盛岡の生態系と合わなかったのだろう、数年で姿を消したという。

勉強は得意だった。一帯で一番の進学校である盛岡第一高校から、東北大学薬学部に進んだ。

「漠然と博士、研究者になりたいって考えていたんです。でも、どういう研究をしていいのか分からなかった。生物も化学も物理も勉強できるから、とりあえず薬学部に入ってみたんです。勉強しているうちに自分が興味を持っているのは生物系、基礎医学だなと気がついたんです。そこで、生物系の本場である医学部に行こうと思いました」

この頃、他学部から医学部への転部は稀だった。薬学部を卒業、国家試験に合格した後、1年間浪人生活を送り、山形大学医学部に合格した。

医学部では基礎医学——人体の構造、機能についての学問に夢中になった。

「人の身体ってこんな風になっているのかって紐解いていくのが楽しかった。良くできているんだなという感動することばかりでした。研究の方に行くつもりだったんですが、当時の病理学の教授が、病理とは基礎(医学)と(患者を診察する)臨床(医学)の橋渡しをする学問なんだよという話をされたんです。折角、医学部に入ったのに、臨床的なものと繋がりがなくなるのもつまらないなと思って、病理に進むことにしました」

病理学とは、疾病の形態と機能などを総合的に研究する学問を指す。そして大学6年生で結婚していた野坂は、卒業後の研修先に夫の地元である、とりだい病院を選んだ。2006年4月のことだった。そこから米子に居つづけている。

「鳥大の良さ? 出身大学での差別がないことですね。(他大学出身は)〝外様〟扱いされるなんて聞いたことがありましたが、鳥大では全くないです」



診断によって手術のやり方が変わってしまう「術中迅速検査」

野坂の専門は病理診断科である。

患者の身体から採取した組織、細胞を薄く削ったガラス標本を顕微鏡で観察して病名を確定させる。確定診断とも呼ばれる。

「がんの確定診断は病理(診断科)しかできません。九割以上、がんかそうではないかの判断は簡単です。形が整っていれば大丈夫だなと。がんというのは、一言で言うと細胞、組織が〝異型〟なんです。細胞一つひとつの形もおかしいし、並び方もぐちゃぐちゃになっている。ぐちゃっとなっている場合は、倍率を上げて(見て)みる」

標本は青色、あるいはピンク色の染料で色づけされており、組織の形が見えやすくなっている。野坂たちが普段使っているのは、400倍拡大の顕微鏡である。100倍ほどの拡大で、判断がつくものがほとんどだ。「ぐちゃっと」なっている場合、倍率を400倍に上げる。

「ちょっとだけ変でも、がんになりようがないというのもある。異型がやや強めに出ている場合は、今はがんではないですけど、念のためフォローアップ(経過観察)してくださいというコメントを書きます」

さっと顕微鏡を覗き、レポートを書く場合がほとんどだが、一時間以上、腕組みを続けることもある。

「大学病院ですから、難しい症例が集まってきます。見た事のない細胞の形、見たことのない並びをしている、みたいな。見慣れないものが出たら、すぐに教科書を引っ張ってきて調べる。それでも分からないことがある。周囲の人に意見を求めたり、(標本の)量が少ないので取り直してもらうこともあります。それでも分からない場合にはそれぞれの信頼できる専門家に送るしかない」

ごく一部に限って、ではあるが、がんかそうでないかの線引きには、熟練した専門医の中でも判断が割れることがあるのだという。自分の中の基準を動かさないようにという恩師の教えを野坂は今も守っている。

ただし、思索、検討の時間が与えられない場合もある。手術中、予測していなかった所見を発見した場合、あるいは切除範囲を決定するための術中迅速検査だ。

「判定によって手術のやり方が変わってしまうこともあります。乳がんならば、乳腺に一番近いリンパ節を採取します。そこにがんがなければ、それで終わりなんですけれど、がんがあった場合、脇の下のリンパ節をすべて取らなくてはならない。そうすると腕がリンパ浮腫になって皮が厚くなって、女性としては悲しい状態になってしまう」

同じ女性だからこそ、術後の苦しみが分かる。とはいえ、がんが転移していた場合、切除しなければ、命に関わる。病理医として働き始めてしばらくは、その責任の重さで潰されそうになった。

「最初の頃は、リンパ節(にがんの)転移はありません、の一言を電話するだけで、緊張してだらだら汗をかいていました。怖かったんです」



野坂加苗
「机の周りに飾られている、好きな漫画のフィギュアたちが仕事中、最大の癒しである」

病理医に向いているのは「オタクっ気」のある人

術中迅速検査では、組織の一部やリンパ節が「エアーシューター」と呼ばれるカプセルで病理診療科に送られる。まず、技師が凍結して切片化。標本を作成。野坂は顕微鏡で標本を覗き、手術室に電話で結果を伝える。野坂の声は手術室のスピーカーから流れるようになっている。

術中迅速検査では速さが要求される。ただ、時に立ち止まる勇気も必要だ。

「時間との勝負でもあるんですけれど、やっぱり大切なのは正確であること。よく分からないなというときは、もう一度、標本を作り直してもらうこともあります。答えを返す時間が20分延びたとしても、正確な答えを出すべきなので。そのときに電話の向こう側にいる(執刀している)先生と気心が知れていると、今、こういう状態で迷っている、ということをきちんと伝えやすい」

人間の身体は完全に解明されていない。そのためどうしても、グレーゾーンが出て来る。そのグレーゾーンを切り抜けるのは、最終的に人と人の信頼関係なのだと野坂は考えている。

「一番嬉しいのは、臨床の先生の役に立てたとき。確定(診断)がついて助かったとおっしゃっていただけるときは、やっぱり嬉しいです」

病理科にやってくる医師は、人とのコミュニケーションが苦手な傾向があるという。後輩たちには、臨床の医師たちと普段からコミュニケーションを取るように、諭している。

病理医に向いているのはどんな人ですか、という質問を向けてみた。野坂は思案顔になった後、「オタクっ気がある人かな」と笑った後、こう続けた。

「やっぱりすごく勉強が好きな人じゃないとできないです。医学は日々進化していますし、範囲が広いんです。うちの病院で言えば、日常診療では救急科と精神科以外、すべての科と付き合いがあります。病理医にも得意分野があって、それぞれカバーしているんですが、それでも自分が詳しくない分野だったり、分からない疾患がポーンと出て来ることがある。そのときは立ち戻って基礎から調べないといけない。教科書を読まないという日はないです」

突発的な患者に対応しなければならない臨床医と比較すると病理の医師は生活のペースを保ちやすい。そのためか、女性医師が多い。

「患者さんがいないので勤務時間もフレックスにしやすいんです。そういう意味ではちっちゃいお子さんを抱えたお母さんでも働きやすいかなって。今、若手は半分ぐらい女性ですね」

患者と接することがないため、机の回りは、彼女の好きな世界でまとめられている。目につくのは、〝オタク〟の彼女が愛する『ファイブスター物語』の大きなフィギュアだ。ファイブスター物語は、累計850万部を超える永野 護のコミック作品である。野坂は登場人物の絵を描いて、編集部に投稿するほどの愛好者だ。

「それまでは読書家だったのに、仕事で文字ばかり読んでいるせいか、本が読めなくなってしまった。嫌になってしまったんですね。漫画は子どものときに禁止されていたので、いい年になって爆発しちゃった」

医者になって一番良かったのは漫画が大人買いできることかな、と笑って付け加えた。

昆虫好きなのは変わっていない。

「この間、メタリックな綺麗な虫を見つけたんです。なんだろって名前を調べるとウバタマムシという虫でした」

すごいブラウンメタリックなんですよと嬉しそうに言った。

「病院の近くで私がうずくまっているときは、たぶん虫を見てます」

盛岡の昆虫好きだった〝姫〟は成長して、2人の子どもを持つ、とりだい病院の病理医となった。そして今も昆虫と勉強が好き、である。



文・田崎健太
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)『電通とFIFA』『真説・長州力』『真説佐山サトル』『全身芸人』『ドラヨン』など。5月末に新刊『スポーツアイデンティティ』(太田出版)が発売。小学校3年生から3年間鳥取市に在住。2019年に『カニジル』編集長就任。毎週土曜日昼放送の「カニジルラジオ」(BSS山陰放送)メインパーソナリティ。

野坂加苗
医学博士。東北大学薬学部卒業後、山形大学医学部医学科に入学、2006年卒業。同年より鳥取大学医学部附属病院で初期研修を経て、2008年に当院に入職。岩手県出身。