怙贔屓と言われてもいいんです! 新型コロナで公開延期となっていますが、カニジルは一貫して錦織良成監督の映画「高津川」推し!! だって本当にいい映画なんです。 原田省(たすく)病院長は観る度に泣いているとのこと。今号は錦織監督作品の〝常連〟甲本雅裕さんの登場です。さまざまな映画、ドラマで活躍中の甲本さん。意外にもこの高津川が初主演映画。映画の魅力や仕事の姿勢、そして家族に対する想いなど、医師、俳優とそれぞれの道を歩む二人の話は弾みっぱなし。
原田 前号の戸田菜穂さんに引き続き、映画「高津川」にご出演されている甲本さんにお会いできて光栄です。読者には、また「高津川」かと思われるかもしれませんが、それでもいいんです(笑)。ぼくはこの作品を本当に気に入って、すでに4回も観ました。いい映画とは不思議なものですね。毎回発見があります。
甲本 気に入っていただき、本当にありがとうございます(笑)。
原田 甲本さんは岡山県出身ですね。撮影地となった高津川のある島根県益田市に行かれたことはありましたか?
甲本 いえ、初めてでした。島根や鳥取は岡山県民にとって近くて遠い場所で、中国山脈を挟んで山〝陽〞、山〝陰〞と呼ばれています。瀬戸内海側の岡山県が山陽で、日本海側の島根県は山陰。しかし〝陰〞どころか、ものすごく陽の当たっている場所だと感じましたね。それは日照時間という意味ではなく、心の中が灯るような、そんな感覚になる場所でした。撮影期間中でも休日になると役者は自宅に帰ることが多いのですが、本当に益田は居心地がよくて、約1か月もの間、ぼくは一度も東京に帰りませんでした。
原田 相当気に入られたんですね。
甲本 あそこに居続けたいという思いが強く湧いたんですよね。地方都市ですから、過疎化の問題を抱えた大変な場所かもしれません。でも、住んでいる人たちのエネルギーを感じたんです。街が陽に包まれていて東京よりずっと明るい。地元の人たちと話しているとすごく垢抜けているなという感覚を持ちました。
原田 垢抜けたという表現は面白い(笑)。
甲本 ファッションがどうのこうのではなくて、一人ひとりがちゃんとこの地で生きているという顔つき、目をしていたんです。ところで、原田先生は益田をご存じですか? とりだい病院のある米子市と益田市って160キロも離れてますよね。そのため隣県にも関わらず、訪れたことがない人が多いと聞きました。
原田 1975年に島根医大(現・島根大学医学部)ができるまでは、とりだい病院が島根県の医療をカバーしていたんです。産婦人科医の私も益田赤十字病院の応援に行ってました。益田は山陰にしては天気が良くて、映画中の太陽も大変美しかったですね。
甲本 フィルムに綺麗な太陽の光が見事に映っていますね。あれは実際に肉眼で見ることができるし、すごく気持ちいい光なんですよ。
原田 この対談の初回は「高津川」の監督、錦織良成さんのもとを訪れました。錦織監督はとても温かく穏やかな方ですよね。映画界には、厳しく罵声を飛ばす監督も少なくないと聞いていたので、初めてお目に掛かったときは、拍子抜けしたほどでした。
甲本 監督は一切、声を荒げない人で珍しいタイプかもしれませんね。
原田 俳優としては、どちらの方がやりやすいですか?
甲本 (すぐさま反応して)僕の場合は、錦織さんのタイプです(笑)。叩かれて伸びていくのも一つの道としてあると思うんですけど、言われないからこそ何をしたらいいのだろうと考えるのが大切になってきます。ただ、何も考えない俳優だと作品が怖いものになる可能性がありますね(笑)。
原田 だから、錦織監督は甲本さんのように自分で考える俳優を選んでいるのでしょうね。僕はこうも思うんです。甲本さんや私たちの世代は、叩かれて育つのが当たり前でしたが、今はそうではない。とりだい病院は教育機関という側面も持っています。学生を見ていると、うるさく言われた経験が少ないせいか、自分で考え、学ぶことに慣れている気がします。錦織監督は今風のやり方なのではないかと思いました。
甲本 それは面白い見方ですね。
原田 若い世代は、従順で頼りないと言われることも多いですが、ついてこいと強引に引っ張らなくてはならなかった我々の時代と比べて自主性があるとも言えそうです。役者の世界にも、世代の差みたいなものはありますか?
甲本 (腕を組んで少し考えてから)役者の世界はさまざまですね。年代は関係なく、いろんな〝さまざま〞が集まるから一つのものができるみたいな。むちゃくちゃ考えている人と、全く考えていない人が合わさることで面白い化学変化が起きることもありますね。抽象的な表現になってしまいますが、足並みを揃えることが必ずしもいいことではなく、良い作品を作り上げるという目的までの道のりは一つでなくてもいいんです。
原田 医療の現場というのはチームで動きます。看護師や理学療法士、臨床心理士、管理栄養士など、患者さんの退院後までのケアをチームで考えなければなりません。ただ、皆が一つの方向を向いていなければならない。芝居はそうではないというのは興味深いです。ただ、「高津川」では、俳優がそれぞれの動き、表現方法を瞬時に分かり合っているようにも見えました。
甲本 役者はそれぞれに台本を読み込んで役柄を理解して現場に集まります。そこから、こう思っていたはずなのにというものが転がっていくことを楽しめるかどうか、だと思うんですよね。カメラが回り、相手と向き合った瞬間に、こうしようと思っていた演技が不要だと気づくこともあります。そこで捨てるかどうかで流れが変わってきますよね。演技の世界では、台詞を飛ばしたり、変えたりする人がいることの面白さがあります。それに反応する人もいるし、しない人もいる。どちらも間違いではないのです。
原田 正解がない世界ですね。錦織監督は、カットせずにカメラを回し続ける〝長回し〞という手法を高津川では多用されています。カメラが回っている間、俳優たちはジャズの即興演奏のように演技をしていると考えていいですか?
甲本 映画というのはフィクションではあるのですが、フィルムに映っている時間はフィクションではない。その嘘のない時間から生まれてくる化学反応が面白くて、監督はそこを肝に映画を撮っている。それが映画「高津川」なんです。
原田 「高津川」には、地元を捨てて東京で弁護士をやっている誠という登場人物がいます。地元を出て都会に行った人間は、誠に感情移入してしまう人も多いようです。甲本さんも誠と同じで、役者になるために地元を出た一人ですね。
甲本 うちは男二人兄弟で、先に兄貴が東京の大学に行ったんです。そして、音楽をやると言って大学を辞めてしまった。当時親父は、音楽をやるならば出て行けと怒鳴ったんです。それまでは兄が優等生、ぼくの方がやんちゃでした。俺まで好きなことをやるなんて言っていられないなぁーって思いましたよ。とりあえず岡山にも近い関西の大学に進学して、就職してちゃんとした会社員になろう、二人のうち一人でも会社員になれば親父も少しは安心するだろうなって(笑)。それで大阪のアパレル会社に入りました。結局辞めていますが(笑)。
原田 会社に長く勤めるつもりはなかったんですか?
甲本 そういうわけじゃなかったんですが、やりたいことが見つかったのでやめるのが当たり前だと思いました。
原田 やりたいこととは、つまり芝居ですね。会社を辞めるとき、お父さんには話をされたんですか?
甲本 それが……ほとんど黙って行きました(笑)。「東京に行く」って電話だけして、電話線を抜きました(笑)。大学にも行って、就職して、一応のことはやったよなって、自分を納得させましたね。ぼくからも質問なのですが、原田先生はどうして医師になられたんですか?ご家族が医者だったんでしょうか?
原田 いえ。そうじゃないです。私の名前、省(たすく)は、貧乏な人からお金を受け取らずにどんな人のことも快く診る赤ひげ先生のような医師から頂いたものなんです。その先生の話を子どもの頃からずっと親に聞かされていたんです。それで医師になったら家族も喜んでくれるかなと考えていました。甲本さんと違って、周りの人から望まれるように歩いて来た人生かもしれません。
甲本 医者になったのはいい人生だと思いますよ。
原田 ところで、先ほどお兄さんの話が出ましたが、お兄さんの甲本ヒロトさんは「ザ・ブルーハーツ」で1987年にメジャーデビューされ、いきなり「リンダ・リンダ」が大ヒット。音楽をやるならば出て行けとおっしゃっていたお父さんはどんな反応でしたか?
甲本 それが……(苦笑)。親父が自分で経営していたクリーニング屋にザ・ブルーハーツのポスターを貼って、店頭でレコードを売っていました。クリーニング屋の店頭ですよ。それも自分でレコードを定価で買ってきて、定価で売るという(笑)。
原田 やはり親心ですね。お父さんは甲本さんの芝居についても応援してくれましたか?
甲本 言葉にすると人には言えないような恥ずかしいことをよく言ってましたよ。「これは誰にもできん!」とべた褒めされることもありました。
原田 誤解だったら申し訳ないのですが、甲本さんはある時期までお兄さんと距離を置いているような印象がありました。つまり、兄の名前を使って売れたくないというか……。
甲本 ……なんか関わりたくなかったですよね。兄貴が好きでやっているのに、巻きこまれていくのはごめんだよって思っていました。僕が芝居の道に入ることで、兄貴が揺れるのも嫌でした。もちろん周りは僕たちを兄弟として見ますし、それはどうしようもない。家族って面倒くせぇなぁって思った時期はありました。
原田 ところが今回の高津川では、ヒロトさんに試写会に来てくれないかと頼んだと聞きました。
甲本 ええ。そうなんです。30年役者をやってきて事前に観て欲しいと思ったのは初めてです。自分にもびっくりしながら…でも、お互いに時期が重なっていたのかもしれませんね。
甲本 ぼくも兄貴も岡山県の田舎から東京に出てきて、何ら関与せず別々の仕事をやってきました。それが50歳を超えて、兄貴からデモテープを聴いてくれと言われたんです。そのとき、申し合わせたように、ぼくもこの映画を観て欲しいと思っていた。それまで、自分の映画を観て欲しいと言ったこともないし、感想を聞いたこともない。逆に兄貴がレコードを持って来て、どう? って聞いていたら気持ち悪いじゃないですか(笑)。兄弟の俺に聞くなよって。
原田 男兄弟はそんなもんですよね。ぼくも男ばかりの三人兄弟だから分かります。それでヒロトさんは試写会で「高津川」をご覧になったんですね。甲本さんも、その場にはいたんですか?
甲本 いました。ただ、兄貴と顔を合わせたくないから、映画が終わると早々に僕は外に出て煙草を吸っていました。すると視界の片隅に兄貴の姿が入ってきて、「よっ」と声をかけられた。
原田 なんとおっしゃったんですか?
甲本 「よかった。それだけ」と言って帰って行きました。それがALL OKを意味しているのは、兄弟だから分かるんです。それで、すげーな、マジで嬉しいかもなって思いましたね。照れくさいですけど(笑)。
原田 年齢を重ねると、兄弟や故郷に対する考え方は変わってくるのかもしれませんね。
甲本 そうですね。50歳を過ぎてから、自分は岡山に帰るんだろうな、あそこしかないんだろうなって思うようになりました。ぼくが生まれ育ったのは岡山市なので、県内では街の部類に入りますが、それでも東京と比べたら圧倒的に物はない。しかし、安心感という変わらないものがある。それに気がついたのは親父が3年前に亡くなったときです。様子がおかしいということで行きつけの病院に検査入院して異常が発見された。しかし、その病院から移らないと言うんです。ぼくは他のもっと大きな病院で診てもらう、あるいはセカンドオピニオンを取ったほうがいいと思ったんです。でも親父は、それは分かる、でも俺はここがいいんだって。
原田 お父さまは、その病院にいることが、安心感であった。
甲本 それが正しい判断であったかどうかは分かりません。生前、親父は死に際に子どもの手は煩わせない、お前たちと話せない状態になってもお互いにつまらないだろ、会話ができなくなるくらいだったら死ぬ、俺はそれだけは決めている、と。そしてその通りに亡くなりました。
原田 医学は最終的に哲学だと私は思っているんです。医療技術の発達にともない、現在は自分の望まない形で生かされるということも起こりうる。最期をどう迎えるかは、一人ひとりが考えなければならない。元気な間に家族で話し合って決めておいた方がいいです。甲本さんのお父さまはある意味、自分の死に方を選ばれたのかもしれません。
甲本 ぼくもそう思います。だから安心感のある、その地元の病院から動かなかったんでしょう。
原田 とりだい病院もそう言ってもらえる病院にしなければならない。甲本さんと話をして、強く思いました。
映画 高津川
一級河川としては珍しいダムが一つも無い清流、「高津川」を舞台に、人口流出に歯止めのかからない現実の中、歌舞伎の源流ともいわれる「神楽」の伝承を続けながらも懸命に生きる人々の日常の営みを、力強く描いた力作。監督、脚本は「白い船」「RAILWAYS 49 歳で電車の運転士になった男の物語」の錦織良成。
©︎2019 映画「高津川」製作委員会
※中国地方で先行公開され、2020年4月3日(金)より全国公開を予定していた本作は、2020年4月22日(水)現在、新型コロナウイルスの影響により公開延期しています。最新情報は映画『高津川』オフィシャルサイト(https://takatsugawa-movie.jp)、公式SNSにてご確認ください。
俳優 甲本 雅裕
1965年岡山県出身。1989年東京サンシャインボーイズに入団し、在籍中は「12人の優しい日本人」、「彦馬がゆく」、「罠」(作・演出三谷幸喜)などに出演。1995年劇団が充電期間に入り、活躍の場をTV、映画、舞台と広げていく。錦織監督作品では「ミラクルバナナ」(2005年)、「うん、何?」( 2008年)、「RAILWAYS」(2010年)、「わさお」(2011年)、「渾身」(2012年)、「たたら侍」(2016年)と出演が続く。悪を演じれば内に秘めた狂気を、善を演じれば観ているものもつられてしまう印象的な笑顔を、日常の中に存在するリアルな表現でドラマに深みを与えている。
鳥取大学医学部附属病院長 原田 省
1958年兵庫県出身。鳥取大学医学部卒業、同学部産科婦人科学教室入局。英国リーズ大学、大阪大学医学部第三内科留学。2008年産科婦人科教授。2012年副病院長。2017年鳥取大学副学長および医学部附属病院長に就任。地域とつながるトップブランド病院を目指し、診療体制の充実と人材育成に力を入れている。また、職員一人ひとりが能力を発揮できるような職場環境づくりに積極的に取り組んでいる。好きな言葉は〝意志あるところに道は開ける〞。