副病院長 眼科 教授
井上幸次
病院きっての読書家として知られるのが、井上幸次副病院長。連載1回目への登場をお願いしたところ、タイトルを聞いて急に及び腰にーー。
「私の読書は楽しみのためなので、たとえば推理小説が一番好きです。ですから、本によって進路が変わったなどという経験はあまりありませんし、そんな読み方をしていないんです。それに手元にある本となると…ちょうど引っ越しで整理をしちゃってね」
2日後、井上先生が手に持って現れたのは、書家が書いたと思しき題字の分厚い書籍だった。
「映画監督、黒澤 明の脚本集『全集黒澤明』です。年代順になっていて、世に出た作品はもちろん、映画化されなかったものや違う監督によって映画化されたものも含まれています。全部で7巻、かなりマニアックな本です」
黒澤 明については説明は不要だろう。
『影武者』でカンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞など、国内のみならず国外でも高い評価を受けた。スティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカスにも強い影響を与えた日本映画界の巨人である。
井上先生と黒澤作品との出会いは学生時代に遡る。
テレビで『七人の侍』を観たのが始まりだった。そのあと『用心棒』と『椿三十郎』を次々に観て、すっかり虜になってしまった。
「『七人の侍』はアクション映画の最高峰でとても面白いです。ただ当時の録音技術は今より劣っており、セリフが聞き取りにくかったんです。ところが留学先のアメリカで、『七人の侍』のビデオを借りて観ていたら、英語の字幕があってね。あのとき聞き取れなかったセリフが分かり、黒澤の世界がより理解できたんです。それで他の作品のシナリオも確認できると思い、脚本集を買いこみました」
黒澤映画のセリフは聞き取りにくいことで有名である。
脚本集には登場人物のセリフ、情景描写、注釈などが記され、入念に練られたセリフは、言葉として響くものがあった。まるで戯曲のようだと感じたのだ。黒澤は複数の脚本家を起用して、徹底的に脚本を練り上げていったことでも知られている。丁寧に作られた脚本には黒澤の哲学が見事に反映されている。その言葉一つひとつは宝石のようだった。
なかでも井上先生の心に残ったのは『赤ひげ』である。老医師と若い医師の師弟物語だ。
「安本という若き医師が、出島でオランダ医学を学び、勉学によって得た成果は自分のものだと言い放ったのに対し、赤ひげは『医学は誰のものでもない、天下のものだ』と説いたのです。この言葉は心に残っていますね。そして赤ひげは若い医師を指導し、若い医師もまた、女郎屋の下働きとしていじめられて病んだ女 の子を助けて何とかしてやろうとする…。人が人に『教える』ことはつながっていくのだと。私たち医療者は患者を診るだけでなく、次に教えていかなければなりません。自分のやっていることは、こんなふうに後世につながっていっているのだと映画を観て実感が持てたのを覚えています」
井上先生は、この『全集黒澤明』を折にふれ読み返し、人生の本質とは何かを見つめ続けているという。若い人にぜひ黒澤映画を観て欲しいというのが、井上先生の願いである。