鳥大の人々
副病院長 泌尿器科 教授 武中篤
治療で1ミリの妥協もしないのは、あのときの哀しみを他人に味合わせたくないから

文・田崎 健太 / 写真・中村 治


武中 篤
©︎中村 治

手術支援ロボットーダビンチは手術を一変させた。コンソールで操作するアームは、0.1ミリ単位で細かな物体を震えることがなく掴むことができる。術者は拡大した映像を見ながら以前よりも高い精度で手術を行えるようになった。
決して順風満帆ではなかった武中の人生とこのロボット手術は切り離すことができないー。



武中 篤が医学の道を志したのは、小学3年生のときだった。母親が慢性腎不全で亡くなったのだ。

「慢性腎不全ってね、今は血液透析を行えば命を落とすことはないですよね。その当時は、まさに日本にその技術が導入されたばかり、当然、健康保険は利用できません。私の父親は学校教師、普通の家庭です。慢性腎不全に血液透析という治療選択肢は一般的ではなかった」

父親が医師と血液透析をするかどうか、相談をしていたことははっきり覚えている。

当然無理ですよね、と医師は冷静な口調で言った。そのやりとりを聞きながら、死刑宣告を受け入れるとはこういうことなのだと思った。母親が亡くなったのはその数日後のことだ。その前後の記憶はほとんどない。

「母親が寝込んでいる姿しか覚えていない。あとは夏休みに母親の調子がよくなって、家族旅行に数回行ったことぐらい」

その理由は分かっている。その数年後の父親が再婚したのだ。

「新しい母親は素晴らしい人だった。今でも血縁のある親子以上に信頼もしているし、仲もいい。だから前の母親には申し訳ないけれど、私の記憶から消さざるを得なかったのだろう。生体防御反応です」

ただ、医者になろうという決心だけは、彼の頭に残ることになった。

武中は1961年5月に兵庫県加東市で生まれた。最初の挫折は高校に進学した後、野球部を覗いたときのことだ。小学生から投手だった武中は高校でも野球部に入り、甲子園を目指すつもりだった。しかし、自分の力量ではとても歯が立たないと悟ったのだ。

そこから3年間、勉強に集中することになった。私は身の程を知れる人間なんです、と武中は自己分析する。

「世の中に頭の切れる人はいっぱいいます。そういう人は、すべてが一瞬に頭の中に入ってくる。凡人はどうしたらよいのか、そうしたらその差を埋めることができるのか。時間を掛けるしかないんです」

頭の切れる人が1時間でやるなら、自分は2時間でやればよい。そう武中は思いながら机に向かった。そして現役で山口大学医学部に合格している。

入学後は医学部の準硬式野球部に入った。大学6年間は、ほんと野球漬け、勉強は試験直前以外はほとんどしていない、試験はいつもカツカツ、と笑った。

大学卒業が近づき、専門科目を決める時期になった。5年次、頭に浮かべていたのは消化器内科だった。

「ある分野で、抜けた存在になりたかった。内視鏡に興味があったんです。でも1年間迷って、なぜか決めきれなかった。消化器内科に進もうか、別の科に進もうかと。そのとき、ふと頭をよぎったんです。俺、どうして医者の道を選んだのかって」

そこで母親が亡くなった、あの3月の寒い日が突然浮かび上がってきたのだ。

「1日で泌尿器科に決めました。消化器内科って最もメジャーな診療科で、多くの医師が在籍している。そこで頭抜けるって大変じゃないですか。当時、泌尿器科っていうのは、どちらかというとマイナー診療科で他の診療科と比べたら歴史が浅い。少し頑張ったら、唯一無二の存在になれるのでは、という考えもあった」

S