鳥大の人々吉川泰司
鳥取大学医学部附属病院
心臓血管外科 教授
アメリカで最先端の技術を習得して帰国、そして鳥取へ
後進に伝えているのは
「患者を自分の家族に置き換えて考えること」

写真・馬場磨貴


日本の心臓移植が再び動き出す場所に居合わせた若き医師は、経験を積むため渡米しアメリカの医師免許を取得。アメリカは世界から人材が集まる激しい競争社会である。日本人ならではの「真面目さ、勤勉さ」で世界屈指の名医の信頼を勝ちとり、最先端の技術を習得。今、鳥取の地で、手薄になりがちな心臓外科医の後進育成に力を注ぐ。


鳥大の人々

 吉川泰司が心臓を専門にしようと心に決めたのは、大阪大学医学部1年生のときだった。「医学序説」という医療の総論を学ぶ授業に第一外科(現・心臓外科)の教授、川島康生が来たのだ。

「川島先生は心臓移植の話をされました。心臓が悪くなった患者さんに他人の心臓を移植することで元気になる。そんなことができるのかと驚きました」

 心臓移植とは、患者の心臓をほぼすべて切除し、脳死と判定された臓器提供者(ドナー)の心臓に置き換える手術である。

 心臓移植の歴史は古い。

 1967年、南アフリカの心臓外科医が世界初の心臓移植に成功。翌68年、札幌医科大学で日本初の心臓移植が行われている。しかし、この手術はドナー(臓器提供者)が脳死状態だったのか、心臓摘出の時期は適切だったのかと問題視された。法整備の不備もあり、医療倫理、心臓摘出の違法性が問われたのだ。

 以降、30年間日本では心臓移植手術が行われることはなかった。このとき、川島が、臓器移植法の法整備などに奔走していたことを吉川は知らない。

 96年3月、吉川は大阪大学医学部を卒業、国家試験に合格、希望通り第一外科の研修医となった。第一外科は大阪大学医学部の看板である。頭脳に加えて、体力、精神力が要求される。

「入局した日から当直でした。朝の7時から夜中の3時までの勤務。基本、持ち場から離れてはだめ。ご飯のときだけ抜ける。看護師さんが休みに入ると、その役割も我々の仕事。回診では、この患者さんに何のお薬が入っているのかと上司から突然聞かれることもある。薬の名前はもちろんですが、それがどういう作用なのかも答えなければならない。答えられなかったら、どんな副作用が起こるか分からないのに薬を出してはならないだろうと叱られる。ごもっともなんですが、それがなかなか大変なんです」

 ずっと薬の本と辞書を持ち歩いて、次に何を言われるのか先回りして考えるようにしていましたね、と振り返る。最初の1年間はほとんど病院に泊まり込み、家に帰るのは週に1回程度だった。

「病院に寝泊まり、荷物はトランクルームという同級生もいました。少々のことではへこたれない精神力は鍛えられました。それだけ必死だったから成長スピードは速かった」

 97年に臓器移植法が制定、99年に心臓移植が再開される。執刀したのは、第一外科教授を川島から引き継いだ松田 暉だった。吉川の上司である――。  吉川は日本の心臓外科が大きく動き出す時期、その最前線に居合わせたのだ。



他と差をつけるには、日本人の
〝真面目さ、勤勉さ〟しかない。

 2001年10月、吉川はコロンビア大学のリサーチフェローとしてアメリカに渡る。第一外科教授の松田から与えられたミッションは心臓移植の研究でしっかり業績を出すこと、つまり評価される論文を書き上げること。さらにこうも釘を刺された。それだけで終わるな、アメリカで医師免許を取得し、心臓手術の経験を積んでこい、と。

 心臓手術に限らず、手技の習得には一定数の臨床経験を積む必要がある。アメリカの医療機関は集約化が進んでおり、日本と比較にならないほどたくさんの患者が集まっている。そこで修行することは理にかなっている。

 しかし、である。医師免許は基本的には各国、国によっては州が管理する国家資格である。日本の医師免許を保持していたとしても、アメリカで患者を診るにはアメリカの医師免許を取得せねばならない。当然、試験は英語である。

 研究に加えて、妻の出産も重なるなか、吉川は2004年にアメリカの医師免許を取得、2005年からイエール大学胸部心臓外科のクリニカルフェローとなった。高度な専門医療を身につけるための研修医だ。

「疾患に関する知識を十分有し、(手術後の)術後ケアおよび術後管理を適切に行うことができる。ただ、心臓手術の経験は10例もなかった。〝こいつ何者だ〟というふうに見られているのも感じました。他と差をつけるには何かと考えたときに、日本人の真面目さ、勤勉さしかない。まずは術後管理をきちんとすること、英語は不得手だけれどコミュニケーションはきちんと取る」

 回診は朝6時から始まる。吉川は遅くとも5時半には病院に着き、看護師に患者の状態を確認。手術後は、患者が運ばれた病棟まで行って目を配り、カルテに書き込んだ。休日である土日も病床に行き、様子を聞き取ることもあった。

「担当患者がICUでの術後管理を終えて一般病棟へ移ったあとは、病棟担当のチームに引き継ぎます。レジデント(研修医)自身がその後を診ることは通常ありません」

 さらに自宅では〝糸結び〟に精を出した。各種の手術器機が発達したが、今でも太い血管は糸で縛り、針と糸で縫い閉じる。針と糸を使った手技は特に心臓外科には欠かせない。

「アメリカ人のレジデントを見ていると、ある日、突然、(手術を)やってみろと針と糸を渡されていた。そこで成功すれば次に進める。自分の番がきたとき完璧にできるようにしようと考えたんです」

 まずは基本の〝糸結び〟を20分で千回できることを目指した。その後、わざと脇を開いて、ペーパータオルを縫う訓練に没頭した。

「不安定な状態で縫っても手が震えないようにする練習です。緊張しないように禅の本を読んだり、呼吸も工夫しました」

 すべて吉川独自の工夫だ。そして、その日はやってきた――。

「いつも通り、いつも通りと心の中で唱えてました。そうしたら上手くいった。その後、もっとやってみろとどんどん任せられるようになった。半年過ぎた頃には、胸を開けて冠動脈パイパス手術をやっていました」

 イエール大学の2年目、心臓弁膜症外科部門の責任者であるサベット・W・ハシムから「自分の専属フェローに1年間なってくれないか」と声をかけられた。レバノン出身のハシムは世界的な手術の名手として知られていた。彼は吉川が術後管理をきちんと行なっているところを評価していたのだ。

「手術の上手な人にありがちですが、ハシムは人に手術をやらせない。だからぼくはこう言ったんです。私は日本から手術の勉強に来た、ずっとアメリカにいるつもりはない。これまで以上に私に手術を教えてくれるならば、私は全力であなたを支える、と」

 ハシムは少し考えさせてくれという返事だった。翌日、吉川はハシムに呼びだされた。吉川の条件を受け入れるという。

 ハシムの手術で手術室に入るのは基本3人。ハシム、吉川、専属ナースだ。

「助手の位置に入ろうとしたら〝ヨシ(吉川の愛称)、そこじゃない。お前は術者だ〟って。そこから400例すべて一緒にやらせてもらいました」

 ハシムもまたアメリカでは外国人である。アジアから来た自分に共感を持ったのかもしれないと吉川は考えている。

 彼は僧帽弁の形成術において世界的権威だった。

「運針、判断力のすごさ。ものすごく器用なんです。あの人ほど手術がうまい人は見たことがない。それを目の前で見せてもらったことは人生最大の宝です」

 今も彼の指の動きは脳裏に刻み込まれていますと吉川は言う。



自立して手術を遂行できる
後進を育てるため鳥取へ

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 2007年7月、吉川はブリガム・アンド・ウィメンズ病院心臓外科に移り、MICS――低侵襲心臓手術を経験した。低侵襲とは身体への刺激が少ないという意味だ。外科手術では切開など、身体を傷つけることが少ないことを指す。

 心臓手術では通常、胸の中央を切開、胸骨を割って心臓を見える状態にする。低侵襲手術からほど遠い分野とも言える。MICSでは、5~8センチ程度の小さな切開から肋骨の間を通して心臓を手術する。この時点で日本でMICSはほとんど行われていなかった。

 吉川が日本に戻ったのは2008年のことだ。大阪大学医学部附属病院では澤芳樹教授のもと心臓移植やMICS手術を数多く行なっていた。その後、縁あって2020年に鳥取大学医学部に赴任した。

 吉川と鳥取大学をつないだのは、ロボット支援手術である。とりだい病院では2011年に低侵襲外科センターを設立、複数の診療科でロボット支援手術を行なっていた。

 心臓外科はロボット支援手術の導入が最後まで進まなかった診療科だった。心臓を一時的に止める必要があること、繊細な縫合操作を狭い視野で行う特性があることが、その主な理由だ。ロボット支援手術はMICSよりも患者の身体を傷つけない。大阪大学医学部附属病院ではMICS手術の延長として保険適用前からロボット支援手術を行なっていたのだ。

 2022年10月、吉川はとりだい病院で日本初のロボット支援下大動脈弁置換術を成功させた。大動脈弁は解剖学的に視野の確保が極めて難しい部位に位置し、石灰化した弁を取り除いたうえで人工弁を正確に縫い付けなければならない。難易度の高い手術で、世界でも数カ所の医療機関しか成功していなかった。

 そして翌2023年、鳥取大学医学部心臓血管外科学教授に就任した。吉川はこの地で自分が果たすべき使命は後進の育成――すなわち自立して手術を遂行できる心臓外科医を育てることだと言う。そのため、自分の目の届く範囲で経験を積ませている。

「私が外来で最低30分、患者さんに手術のメリット、デメリットを説明します。その上で手術を行う。若手の技術を確かめた上で、手術の安全を担保しながら、どんどん若い先生に手術をしてもらっています」

 なにより強調するのは、患者を自分の家族に置き換えて考えること。家族だったら何をしてほしいのか、ということだ。

 今、若手の医師たちの成長を吉川ははっきりと感じている。

「鳥取に限らず地方は人口が減り、医師が足りなくなるのは間違いない。とりだい病院のいいところは、この地をなんとか良くしようと医師、看護師、事務員までみんなが前を向いていること」

 働き方改革もあり、かつての自分のような勤務は若手に強要はできないし、すべきではない。その中で患者にいかにいい医療を提供できるか。自ら考え、工夫、自己研鑽することで補えると吉川は信じている。それはまさに彼がたどってきた道でもある。



文・田崎健太
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家、『カニジル』編集長。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)『電通とFIFA』『真説・長州力』『真説・佐山サトル』『スポーツアイデンティティ』『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』(カンゼン)など。最新刊は『ザ・芸能界 首領たちの告白』(講談社)。小学校3年生から3年間鳥取市に在住。(株)カニジル代表として千船病院広報誌「虹くじら」近畿大学医学部がんセンター広報誌「梅☆(うめぼし)」大阪けいさつ病院「O I M∞」も制作。

吉川泰司(よしかわ やすし)
大阪府出身。1996年大阪大学医学部医学科を卒業後、大阪大学医学部附属病院、大阪警察病院、国立循環器病研究センターで心臓血管外科医として研鑽を積む。2001年からアメリカ 4 都市の大学で7年間にわたりクリニカルフェローとして 臨床留学。帰国後は桜橋渡辺病院、大阪大学医学部附属病院を経て、2020 年鳥取大学医学部に赴任。2023 年 11 月心臓血管外科学の第 6 代教授に就任した。