鳥大の人々 宮田 麗
鳥取大学医学部附属病院
副看護部長
患者の死に対して、
医療従事者は泣いてもいいのか、
心に(よろい)を着せて淡々と仕事に集中すべきか

看護の本質とは

写真・馬場磨貴


医師の父親の背中を見て、看護の道に進んだ宮田 麗は、とりだい病院入職後、「病棟6階A」に入る。そこで直面したのは、死と向きあう患者たちの姿だった。患者が亡くなるとき、涙を流していいのか、それとも感情を押し殺すべきか。当時、20代だった宮田は答えが出せず悩み、異動希望を出した。それから17年後、意外な出会いにより、当時に引き戻されることになる―。


鳥大の人々

 目立つわけでも,目立たないわけでもなく、あまり面白くない子どもだった―というのが宮田 麗の子ども時代の自己評価である。

 将来の道として朧気に看護師を思い描いたのは、中学生のときだった。恐らく父の影響だったと宮田は振り返る。父親は医師だった。

「父はあまり介入してこない人で、自由に育ちました。成績表も見てもらったことはないです。(5段階評価で)すべて〝5〟で当たり前でしょ、みたいな」

 でも私は5じゃなかったんですけど、と笑う。

 中学生時代は吹奏楽部でホルンを担当、米子西高校に進むと、サッカー部のマネージャーになった。マネージャーという響きに惹かれただけで、サッカーには興味がなかったという。大学は広島大学医学部保健学科に進んだ。

「医師になるには成績が必要なので、医師という選択肢は最初からなかったです」

 本当は生まれ育った米子を出たくなかった。

「私は米子が大好きでした。しかし、当時は四年制の看護の大学が少ない時代でした。担任の先生の勧めで国立大学を受験することにしました。一番近い看護師養成コースのある国立大学が広島だったんです」

 看護師になるには3年課程の短期大学、あるいは専門学校に通うのが普通だった。この時点では、地元の鳥取大学の医療技術短期大学部看護学科も3年制だった。ただし、看護師業務の専門化が進み、4年制へ移行しつつある時期でもあった。

 広島大学卒業後は米子に戻り、鳥取大学医学部附属病院に入職した。最初の配属は血液内科、消化器内科、腎臓内科の患者を担当する『病棟6階A』だった。

 印象に残っているのは、血液内科の患者だ。

「入院期間も長く、治療もきつい。頑張って治しても再発したり……。良くなって退院できる人だけではありませんでした」

 その中の一人に27歳の女性患者がいた。宮田よりも少しだけ年上、綺麗な目をしており、落ち着いた雰囲気の女性だった。

 彼女によると、しばらく身体が怠く微熱が続いていた。体調不良かなと思っていると貧血や立ちくらみが起きた。さらに、ぶつけた記憶もないのに身体にあざができていることもあった。おかしいと思い検査を受けると、骨髄異形成症候群と診断されたという。

 骨髄とは骨の内側にある柔らかい組織である。赤血球、白血球、血小板といった血液細胞を作る役割を担う、血液の工場である。

 骨髄の中にある血液を作る幹細胞に異常が生じ、正常な血液が作られない状態が骨髄異形成症候群だ。彼女は骨髄異形成症候群から急性骨髄性白血病に進行しており、5年後の生存率は7パーセント。治療するには、骨髄移植しかなかった。

 しかし―。

 骨髄移植ではドナー(提供者)と患者のHLA型という白血球の型をできるだけ一致させる必要がある。きょうだいでさえ完全一致する可能性は25パーセント。彼女の場合、妹と適合しなかった。日本骨髄バンクに登録をして適合するドナーを探していたが、骨髄バンクの登録数はそう多くない。適合する確率は数百万人分の一とも言われる。



看護師は患者の「死」に
泣いていいのか

 宮田は当時をこう振り返る。

「彼女だけでなく、(血液内科には)ご飯を食べられず、高熱でぐったりされている患者さんがたくさんおられて、どうやって声をかけたらいいのか分かりませんでした」

 とりだい病院には、彼女のようにドナーを待っている患者がたくさんいた。患者たちは集まり、互いを励ましあっていた。しかし、ドナーが見つからず、知った顔が消えていく―。

「最初のうちは患者さんが亡くなると涙が出ていたんです。それがだんだん慣れてくる」

 この患者さんは多分、今夜亡くなるだろうと思って、段取りを始めている自分にはっとしたことがあった。

「先輩からは、〝他の患者さんもいるんだから、泣かないように〟って言われました。でも、それって本当に正しいことなんだろうかと悩みました」

 看護師は、日々接している患者に思い入れを抱きがちだ。感情の揺れは、時に医療従事者の邪魔となる。やがて自分の心を守るために感情を押し殺し、痛みを感じなくなる。心に鎧を着せるのだ。それでいいのだろうか、宮田は悩み、異動希望を出した。

 2005年、宮田は手術部に移った。

 実は、手術部は自分の希望ではなかったんですと苦笑いする。手術部は病棟の看護師とは全く仕事内容が異なる。 

 手術部の看護師の仕事は大きく分けて「器械出し」と「外回り」の2つ。

 器械出しの看護師は、器械台の上に並べたメス、注射器、ガーゼなどの手術器具を指示に従って、医師へ渡していく。外回りの看護師は手術記録、出血カウントが主たる仕事となる。

 担当する手術の診療科も様々だ。その日の術式を理解して臨まなければならない。手術中に器具を渡す際も、脳神経外科で使用する器具は繊細なため、優しく扱うなど、差異がある。

 さらに宮田が戸惑ったのは、患者との関係だった。

「病棟では患者さんとたくさん会話できていました。でも手術室では、患者さんは全身麻酔で眠ってしまっています。最初は、関わる時間が減ってしまったと思いました」

 手術部の看護師は、患者から直接感謝やねぎらいの言葉をかけられることは、ほとんどない。ただ、この手術を無事に終えることができたことにやり甲斐を感じるようになった。

「体位調節、体温管理など、患者さんが眠っているからこそ、やらなければならないことがある。実際に手術室の中で一対一の時間が結構あります。眠っている患者さんのことを考えて看護をする。それがすごく楽しく思えるようになりました」

 2015年4月、宮田は手術部の副看護師長となる。宮田を推したのは、手術部の上司であり、現在のとりだい病院副病院長、看護部長の森田理恵だった。

 森田は宮田をこう評する。

「手術部の看護師は、〝先読み〟が大切なんです。彼女は医師や他の看護師、臨床工学技士とコミュニケーションを図り、手術をスムーズに行うことができた。チームリーダーとしても仲間の動機づけが上手でした」

 このとき、森田は宮田に「副師長は通過点だよ」と声をかけている。さらに上を目指してほしいと考えていたからだ。かつて目立つわけでも目立たないわけでもなかった彼女は、前に押し出されていくことになる。

 宮田の手術部での生活は2018年3月までの約12年間に及んだ。2018年4月から再び病棟に戻ることになった。



看護は人間じゃないと
できない部分が多い

 2022年11月のことだった。

 土曜日の昼、地元のラジオ局BSS山陰放送の『カニジルラジオ』を聞いていた。カニジルラジオには、ほぼ毎週、とりだい病院の関係者が出演している。別の部署の人間の話は参考になると、なるべくラジオを聴くようにしていた。

 この日のゲストは、医療事務作業補助者の小谷みのりだった。医療事務作業補助者とは、医師の診療に関する事務的業務を代行、補助する専門職である。ドクターズクラークと呼ばれることもある。

 骨髄移植をとりだい病院で受けた彼女は、医療従事者の献身ぶりに感銘を受けて、病院で働きたいと思ったという。そして医療事務作業補助者の資格を取得、とりだい病院で勤務していた。

 この静かな口調、どこかで聞いたことがある。みのりという名前も記憶にあった。彼女が骨髄移植を待っていたのは、自分が病棟6階Aにいた時期と重なる。もしかして、あの綺麗な目をした患者さんじゃないか。慌てて当時の病棟にいた先輩看護師に連絡をとると「そうよ、みのりさん。今、とりだい病院で働いているわよ」とあっさり言われた。

 休み明けの月曜日、宮田は病院に行くと小谷を探した。彼女の顔をみつけると、みのりさん、元気だったのねと思わず背中を大きく叩いた。彼女が元気でいてくれたことが嬉しかった。

 後日、小谷から入院当時のノートを見せてもらった。

「みのりさんは(空気中の微生物、粉塵などを高度に制御した)クリーンルームに入っておられて、ご家族との面会も制限されていました。我々、看護師が彼女の様子をノートに記録して、ご家族がお見えになったときに見てもらえるようにしていました。彼女はそのノートを残していて、宮田さん、こんなことを書いていたよと教えてくれたんです」

 私が覚えていないこともたくさんありましたという。駆けだしの看護師として苦闘していた時期の自分が蘇ってきた。

 2025年4月から宮田は、副看護部長となり、看護部長の森田を支える立場になった。後進の育成も彼女の業務の一つだ。

 彼女がかつて悩んだ、看護師とは患者の死に対して感情を露わにすべきなのか、心を鎧で覆うべきなのか、の答えは出たのか―。

 宮田はこの問いに少し考えたあと、口を開いた。

「人それぞれ、死に対する価値観は違いますよね。患者さんが亡くなるときに、ご家族と一緒に泣く看護師がいても、ある程度の距離をとる看護師がいてもいい。患者さんとご家族の関係も様々。いろんなケースがあるので、何が正解というのはないかなと思います」

 死を目の当たりにして心が揺れるのは人間ならでは、である。

「AIが進化する中で、人間がやらなくてもいい仕事は増えてくるでしょう。でも看護は人の温かさ、寄り添うこと。人間じゃないとできない部分が多い」

 だから難しい部分はありますが、やり甲斐があるんですよと笑った。

鳥大の人々



文・田崎健太
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家、『カニジル』編集長。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)『電通とFIFA』『真説・長州力』『真説・佐山サトル』『スポーツアイデンティティ』『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』(カンゼン)など。最新刊は『ザ・芸能界 首領たちの告白』(講談社)。小学校3年生から3年間鳥取市に在住。(株)カニジル代表として千船病院広報誌「虹くじら」、近畿大学医学部がんセンター広報誌「梅☆(うめぼし)」も制作。

宮田 麗(みやた れい)
1997年3月、鳥取県立米子西高等学校卒業。同年4月に広島大学医学部保健学科看護学専攻に入学。卒業後の2001年にとりだい病院に入職。病棟6階A、手術部、病棟2階B、病棟4階BDを経て、2024年4月から看護部業務担当師長、2025年4月から副看護部長、広報・企画センターの副センター長に就任。