鳥大の人々
前放射線治療科 教授 内田伸恵
放射線のビームはメスと同じ。患者さんのことを思って慎重に使いこなさなければならない

文・田崎 健太 / 写真・中村 治


特集
©︎中村 治

放射線治療とは、がん細胞を焼き殺すのではない。分裂をとめて、がん細胞をゆっくりと小さくすることだ。そのため放射線治療が終わった段階では「完治」ではない。放射線のビームは熱くもなく、照射による痛みもない。ただし、体は放射線を記憶する。そこに放射線治療の難しさがあると内田は言うー。

※記事中の所属、役職名等は取材当時のものです。

解剖実習で、自分は医師になる価値があるかと問い続けた

内田伸恵が医師という仕事の重みー人体を扱うという得体の知れない怖さを初めて感じたのは、島根医科大学医学部(現・島根大学医学部)1年生の解剖実習がはじまったときだった。

解剖実習とは医学部あるいは歯学部学生が行なう人体解剖である。

「特殊な処理をされているので(人体から)血は出てこないです。でも、亡くなってはいても人体にメスを入れることに対して畏怖を感じました。生前はどんな人生を送っていたのか、なぜ献体をしてくれたのか、などと考え出すと止まらない。無理やりアトラス(解剖標本の図譜)と同じだと思うようにしました」

解剖実習は月曜日から金曜日の毎日、昼から夕方まで続く。その間、自分は医師に向いているのか、医師になる価値がある人間か、自問自答を繰り返したという。

内田は大分県大分市で生まれた。その後、父親の仕事の関係で数年おきに転居を繰り返している。

「転勤族だったので、小学校、中学校も何度か転校しています。自分の故郷がどこなのかわかりません」

目立つことが嫌いな少女だった。転校先ではまず周囲の様子を窺い、どうやれば穏やかに生活できるのかを考えていた。

「新しい環境で敵を作りたくない。そのために、自分を外に出さない子でしたね。答えが分かっているのに手を挙げないと、よく先生から叱られていました」

高校は静岡の県立高校に入学、途中で転校試験を受けて岡山市に移った。そして受験の時期になり、医学部への進学を検討するようになった。

「小学生の頃、野口英世の伝記を読んだりしていて、漠然と人の役に立てる仕事に就きたいという思いがありました。そしてもう1つ。私の母は専業主婦だったんですが、あるとき『これからの女の子は手に職を持って働いて欲しい』ということを言ったことがあるんです。病気の人を直接助けることができること、そして女性でも資格を持って一生仕事ができること、その2つが大きな理由ですね」

島根県出雲市にある島根医科大学医学部を選んだのは深い意味はない。それまで山陰には住んだことはなかった。彼女によると「出雲という地名への憧れと、自分の偏差値が十分合格ライン内にあった」からだという。

内田は島根医科大学医学部3期生に当たる。1学年100人のうち女子は13人のみ。当時、女子医学生は珍しい存在だった。自分の意思とは関係なく街の中で目立ってしまうことに戸惑ったという。また、冬の寒々とした鉛色の空と低く垂れ込める雲、寒さが身に沁みた。


「頭の先から足の先まで」が放射線治療の範囲

国家試験合格後、内田は母校の放射線科に入局している。

「放射線科の教授だった石田哲哉先生の指導を受けたいと思いました。石田教授が放射線治療を専門としていたので、私もその方向に進んだということですね」

放射線科はその専門性で『放射線診断医』と『放射線治療医』の二つに分けられる。内田は後者である。

放射線治療を内田はこう説明する。

「放射線治療というと放射線でがん細胞を焼き殺すという印象を持っている方が多いのですが、そうではありません。がん細胞はどんどん分裂して無制限に増えていきます。その分裂をとめて、がん病巣をゆっくり小さくしていくのが放射線治療の原理です。6〜7週間かけてがん病巣に少しずつ放射線を照射していく。放射線のビームは痛くも熱くもない。そして切除もしないので、臓器の機能や形を温存しながらがん治療できるのが利点です」

放射線治療医の特徴の1つは、他の専門医と連携をとって治療を進めることだ。

「私たちは頭の先から足の先までという言葉をよく使います。つまり、脳腫瘍から肺がん、前立腺がん、乳がん、子宮のがんなど、多くの種類のがんを治療します。それぞれの患者さんには主治医がいます。私たちからすれば放射線治療をした方がいいと思っても、主治医がそう考えなければ私たちのところには紹介されない。手紙、投薬だけじゃなく、放射線治療もいいですよと言える関係を作ることが大切」

主治医との良好な関係を構築するには専門知識が必要となる。

「主治医が専門とするがんについて、しっかりと議論ができなければ信用してもらえない。だから、放射線治療の臨床や技術・装置に関することだけでなく、多くの種類のがんの標準治療や最新治療について、常に勉強することが必要です」

かつて放射線治療は、手紙や抗がん剤などあらゆる手を尽した後の最終手段とされていた。しかし、それも大きく変わった。音楽家の坂本龍一が中咽頭がんを放射線治療で完治させたことは記憶に新しい。

「いくつもの種類のがんで、放射線治療は手術と肩を並べる治療成績が示せるようになりました。喉頭がんや咽頭がんなど『のど』のがんは放射線が効きやすいです。また、手術をしないで臓器を残すという放射線治療の特性を発揮できる。すなわち声を失わなくて済むのです」



鳥大の人々_中写真
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「放射線治療は、やめどきが一番難しい」

放射線治療の難しさは、治療終了から2ヶ月程の間にゆっくりと病巣が小さくなっていくことだ。つまり、放射線治療終了の時点では、病巣は縮小に向かっているが、消滅していない。

「医師の本能としてなんとかして患者さんを治してあげたいので、もう少し放射線の量を追加したいという気持ちが出てくる」

患者からも、もう少し放射線治療をして欲しいと要望が出る場合もある。それに対して「今後もがんは小さくなっていくから、ここで止めておきましょう」と踏みとどまるには知識、経験、信念、そして勇気がいると内田は言う。

内田が特に辛い気持ちになるのは、まだあどけない小児を治療するときだ。なんとか治してあげたいという両親の必死な顔を見ると、胸が張り裂けそうになる。その中の一人に3歳の小児がん患者がいた。幸い脳腫瘍は放射線治療により完治した。

それから十数年経った後のことだった。がんに罹患したその子の母親が、放射線治療を受けるために内田の元にやってきたのだ。内田の顔を見ると母親は「あのとき、先生にはお世話になりました」と丁寧に頭を下げた。引っかかったのは、その後の一言だった。

「うちの子はずっと小児科に入院しているんです」

10代になっていたその子どもは脳の萎縮が原因で入院していた

「医学はどんどん発達しています。標準治療、つまりこの疾患ならばこれくらいの放射線を照射するという標準量も変わってくる。当時はその時点の標準治療を実施していました。その後、放射線治療による晩発性(遅く病気の症状が現れること)の副作用に関する知見が集積して、その疾患に対する放射線治療の標準量は、3分の2ほどに減りました。つまり、後からみると、当時の放射線の標準量が多かった」

放射線治療の影響ではないかと内田は打ちのめされた気分になった。

「放射線のビームは体を通過して消えてしまう。でも体は放射線を照射されたことを記憶している。特に幼小児の場合、晩発性の副作用が問題となりうる」

もちろん放射線を減らしていれば、脳腫瘍が治らなかった、あるいは再発するという可能性があった。恩師の石田は「放射線治療は、やめどきが一番難しい」と言い続けていた。その言葉を何度も噛みしめることになった。


色紙に書かれていた「鬼手仏心」の意味

放射線治療の技術革新は目覚ましい。

鳥取大学医学部附属病院では10月から約半年かけて放射線治療装置一台を最新のシステムに入れ替える。これにより、肺や肝臓のように呼吸等で動く臓器にできた腫瘍への定位照射――ピンポイント照射の追尾が可能になる。

「これまでの当院の定位照射では、患者さんに30秒間ずつ何回も息を止めてもらう、あるいは呼吸性移動を考慮して照射範囲を大きめにする必要がありました。新しい治療システムでは、腫瘍を追いかけながら小さな照射範囲で治療することができるので、副作用がさらに少なくなります」

特に肺がんには効果的で、合計4回の照射で手術による切除と同等の治療成績が報告されている。

放射線治療医は放射線ビームを照射する、角度、回数、総線量を放射線技師に指示する。これを「治療計画」と呼んでいる。

現在、内田は日本放射線腫瘍学会の理事、そして教育委員長を務めており、後進の指導にも注力している。学会などに出席すると、患者と向き合うよりもコンピューター上で3Dの治療計画を作成することに熱中する若い医師が増えていると感じることがある。

「コンピューター性能や照射技術がすごく発達したので、私の若い時代よりも複雑なことがスマートにできるようになった。治療計画を作ることだけに面白さを感じて放射線治療医になる人もいるようです。でも、私はそれだけでは不十分だと思うんです」

恩師である石田が退官する際、内田は1枚の色紙を受け取っている。そこには毛筆で〝鬼手仏心〞と書かれていた。

「調べてみると外科医に使う言葉でした。どうして私にこの言葉をくれたのだろうって」

外科医は手術で鬼のように残酷なほど大胆にメスを入れる、それは何としても患者を救いたいという仏の心があるからである、という意だ。

「しばらくしてから、放射線のビームも(外科医の)メスと同じだと、はっとしたのです。
我々は患者さんのことを思って慎重に鬼の手を使いこなさなければいけない」


2人の娘が家を出た後、“バランス”をとるためにピアノを始めた

内田には同級生でもある医師の夫との間に二人の娘がいる。一人は医師に、もう一人は薬剤師になった。

「私から(医療関係の職業に)なりなさいと言ったことはありません。ただ、実際になってくれると嬉しいものです。子どもたちからすれば両親とも忙しく、かまってくれなかったという思いがあるはずなんです。親の苦労を見ていて全く嫌だったら、医療関係の道には進まなかったでしょうから」

二人はそれぞれ結婚し、東京に居を構えた。一方、内田は出雲から鳥取市、米子市と山陰に住み続けている。

「入学試験で初めて出雲を訪れてからもう何年でしょうか。山陰での生活が人生で最も長くなってしまいました」

そう言うとおかしそうに笑った。

趣味、気分転換は何かありますか、と最後に聞いてみた。内田は少し考えた後、二人の娘が進学のために家を出た後、ピアノを習っているのだと言った。

「それまでは仕事と育児の両立というぎりぎりのバランスでやってきました。娘にピアノを習わせている頃、自分がやってみる時間的余裕は全くなかった。ところが娘たちがいなくなると、夫が単身赴任なので、全ての時間を仕事に充てることができる。寝食を忘れて仕事ができちゃうんです。それでは自分のなかですごくアンバランスな気がしたので以前から憧れていたピアノを始めたんです」

ピアノの話になると内田の顔がぱっと明るくなった。

「この年齢になると、進歩することって少ないですが、ピアノは練習すれば練習しただけ上達する。それが面白い」

勤務が終わった後、自宅に戻って消音機能のついたグランドピアノの鍵盤を叩く。夫は子どもの頃からピアノに親しんでいた。 近い将来、二人で1台のピアノに向かって連弾するのが彼女のささやかな夢である。



前放射線治療科長 教授 内田伸恵
1984年島根医科大学卒業後、同放射線医学講座に入局。1995年同大学院医学研究科形態系専攻博士課程修了。島根大学医学部、鳥取県立中央病院などを経て2015年3月より現職。専門は放射線腫瘍学、がんの集学的治療。

文・田崎健太
1963年3月13日京都府生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『維新漂流 中田宏は何を見たのか』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞)『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』『真説・長州力』『真説佐山サトル』『ドラガイ』『全身芸人』など。10月にドラフト4位選手たちを描いた『ドラヨン』(カンゼン)を上梓。小学校3年生から3年間鳥取市に在住し、サッカーに熱中(城北ジュニアキッカーズ)。今年から鳥取大学医学部附属病院『カニジル』編集長に就任。



※記事中の所属、役職名等は取材当時のものです。