原田 佐野さんの実家は元治元年、1864年から続く佐野医院(現・佐野内科循環器科医院)。本来ならばそこの5代目になるはずの人でした。佐野さんの子どもの頃は医師の数もまだ限られていた時代でした。相当忙しい姿をご覧になっていたのではないかと思います。
佐野 ええ。もう戦争でしたよ(笑)。住み込みの看護婦さんが常時4〜5人いました。中学校を卒業して准看護師になって、働きながら看護学校に行くという方が多かったようですね。
原田 入院患者も受け入れていたのですか?
佐野 はい。8時半ぐらいから医院を開けて、午前中に診察。午後に往診に出かけて、戻ってきて午後3時ぐらいから夕方まで。その後、夜中でもなんでも往診に出かけていました。医院が少なく交通の便が悪かった頃には往診は欠かせないものだったと思います。松江の忌部の方ではうちの初代からのお付き合いがあるという家が今もあるようです。
原田 忌部ダムのある辺りですね。そこから川を下って宍道湖沿いが佐野さんのご実家ですから、その辺りまでカバーしていたということですか。かつての開業医というのは休む暇もなく夜中まで仕事をしていた。
佐野 大変な仕事、(自分が同じことをやるのは)嫌だなぁって見てましたよ(笑)。
原田 当然、後を継がなければならないというプレッシャーはありましたよね。
佐野 小学校、中学校、高校1年までずっとプレッシャーがありました。
原田 高校1年生まで?
佐野 ぼくの通っていた松江南高校では2年生のときに理系文系、国立私立のクラス分けが行なわれていたんです。成績順に順番が付けられるという能力別編成。2年生のときに文系のクラスに入ったので、それで親もぼくを医者にすることは諦めざるを得ませんでした。理系科目が苦手だったので早くから、私立文系クラスに進むだろうというのは分かっていましたが(笑)。
原田 長男である佐野さんが医学部に進まないというのは大問題ですよね?
佐野 親父の兄弟、5人が集まって親族会議がありましたよ。もう(自分に対する)査問委員会。でも勉強ができないのだから、どうしようもない(苦笑)。幸い弟はぼくと全く違って、良く勉強ができた。兄貴がこんな感じだから、(医者になることを)押しつけてしまったようで申し訳ないとは思ってます。だから、未だに頭が上がらないです(笑)。
原田 このクラス分けで、佐野さんは家業の縛りから自由になれたとも言えますね。そして、元々好きだった文学や音楽、そして芝居に没頭した。佐野さんはギターリストでもあり、写真家としての顔もある。子どもの頃からそうした芸術系の方に惹かれていたんですね。
佐野 写真は親父の趣味だったんです。嫁入り道具じゃないんですけど、結婚を機に二眼レフカメラと現像、引き伸ばしの機材を揃えたようです。なので、新婚時代の両親の写真や、ぼくが生まれた直後からの子どもの頃の写真がたくさん残っています。夫婦で写真を撮っていてぼくも現像を手伝ったり。
原田 お母さまも?
佐野 うちの母方の実家は今も続いている出雲大社専属の写真館なんです。結婚する前は、写真の洗浄とか手伝っていたそうです。幼い頃、押入れの中で現像タンクを父親と一緒に回してたこともよく覚えています。写真が身近にあったのが当たり前だと思っていましたが、恵まれていましたね。
原田 銀塩写真のプリントの経験を子どもの頃になさっていたんですね。デジカメ全盛の今では信じられないです(笑)。
佐野 親父と祖母が続けて亡くなったときに、押入れから佐野家の明治時代からのアルバムが何冊も出てきたんです。ちょっと変わったアートな写真などもあって、富士フィルムのギャラリーの方や島根県立美術館の学芸員の方に見ていただいたところ、親父の撮った写真や古い写真に興味を持っていただき、ぼくの撮りためていた写真と併せて写真展を開くことが出来たのです。
原田 佐野さんの家系には芸術系の方もいたんですね。
佐野 誰だかは分からないんですけれど、いたようです(笑)。祖父も医学生だった頃に写真部にいたようですし、叔父も好きでしたね。医者の家と写真は密接な関係があったようですね。明治時代、お医者さんが写真機とか現像機を売っていたこともあったと聞きます。現像に必要な化学薬品の関係かもしれません。
原田 文化的な活動を許される経済的な余裕があるせいか、医者の子弟は多趣味な人が多い。加えて、山陰には世界的に有名な植田正司さんなど写真家が育つ土壌があったことも関係しているかもしれません。
佐野 植田正治さんもそうですし、森山大道(注1)さんの家計のもともとは大田市。その他、なんといっても(鳥取県東伯郡)赤碕には塩谷定好(注2)さんがいます。松江藩は早くから写真術を学ばせに長崎に藩士を送っていたようです。山陰に優れた写真家が多いのは、そういった歴史的背景と古くから伝わるものを残そうという精神とが混在していたからかもしれません。島根県立美術館の写真コレクションも充実していますし、山陰には写真を愛でる文化があったことは間違いないと思います。
原田 昨年、佐野さんには第58回日本産科婦人科内視鏡学会で山本恭司さんの伴奏つきで小泉八雲の朗読をやっていただきました。佐野さんは娘に「八雲」と名前を付けられています。小泉八雲、ヘルンさんこと、ラフカディオ・ハーンには思い入れがすごくあるんですね。
佐野 子どもの頃から幻想怪奇の世界は好きでしたが、実は小泉八雲の作品は『怪談』や教科書に載っている『日本人の微笑』『究極の問題』くらいしか読んだことはありませんでした。小泉八雲に関するテレビ番組などに出演するうちに少しずつ読んでいき、いつしかのめり込んでいったんです。小泉八雲の朗読を続けるにあたり、自分でシナリオを書くようになったことが何よりも大きいですね。
原田 安来市の清水寺で行なった小泉八雲の百回忌の法要で佐野さんが朗読されていたのはニュースで観ました。
佐野 ええ。あのとき『耳なし芳一』などの作品を朗読したんです。それがきっかけとなり、松江市から八雲の朗読公演の依頼を受けました。どうせやるならばと自分でシナリオを書き、音楽も生演奏でやりたいと思ったんです。最初は自分でギターを弾きながら朗読して、文字通り弾き語りだったんですが、(山本)恭司もいるから使わない手はないなって(笑)。
原田 佐野さんの高校の同級生である。ロックギタリストの山本恭司さんには先日、とりだい病院でライブをやっていただきました。
佐野 義太夫のような伝統的な三味線と語り、琵琶と語りもいいけれど、エレクトリックギターで『耳なし芳一』をやるのも面白いんじゃないかって。
原田 きっかけはどうあれ、あの朗読を聞いていると佐野さんと小泉八雲が重なり、共鳴しているような錯覚になりました。
佐野 共鳴…共振かもしれませんね。八雲を何度も何度も読んでいるうちに、歴史観、死生観、彼の考え方が自分の体の中に勝手に入ってくるという感覚に襲われるようになってきました。
原田 私はずっと佐野さんは出雲の方だと思い込んでいたのですが、実は生まれは松江ではない。お父さまがインターンの医師として勤務していた山梨県で生まれている。
佐野 はい。でも山梨の記憶はないです。その後、東京に移って世田谷の代田橋、練馬区桜台。それらがぼくの原風景です。東京オリンピック前の東京が、ものすごく懐かしい。それこそ映画『三丁目の夕日』の時代の少年です。
原田 そして7歳のとき、お父さまが実家を継ぐということで松江に引っ越した。
佐野 そこから小中高と過ごしているので、もう1つの原風景は確実に松江です。実際に住んだのは7歳から18歳までの10年あまり。ただ、両親も祖先も皆が山陰、出雲の地の人間ですし帰属意識は出雲にあり、そこから逃れることはできません。
原田 逃げられないという表現が面白い(笑)。私は兵庫県豊岡市の生まれで、八雲と同じように松江の人と結婚してこちらに住んで20年を超えました。それでもまだよそ者であるという感覚がぬぐえない。その理由を考えるとこの街の人たちの時間軸が、他の地方とは違うのではないかと。つまり、日本では明治維新、第二次世界大戦という節目で社会を見ます。しかし、出雲の人たちは違う。京都人は「先の戦争」とは第二次世界大戦ではなく、応仁の乱だと言い張ります。京都が“都”であった時代からの流れのなかで生きている。山陰の人も同様かもしれません。
佐野 出雲は「古事記」の国譲り神話に暗喩のある1300年ほど前の大宝律礼が節目ですね。ぼくはこれまで、戦国時代、幕末、戦前戦中、東京裁判以降、さまざまな時代の役柄を演じてきました。いわば時空を飛び越えているようなものです。還暦すぎてからは、特に時間の感覚を大きく捉えられるようになってきたかもしれません。なので400年前というのはそんなに古くない。
原田 松江城は開府400年強ですね。さらに出雲大社になると1000年以上前の話になります。
佐野 小泉八雲の朗読を通して得た感覚の一つとして、彼が綴った120年前の言葉を現在語ると、120年前が現在として感じられるようになったことがあります。ならば、120年先から見た現在はどんな風に感じられるのだろうと思うようになったんです。今は当たり前、正義だと思われている価値観が120年後に通用するのか。例えば江戸時代の仇討ちや、戦で首を切るしきたりで言えば、西洋の尺度、あるいは現在の感覚では野蛮になってしまう。しかし、当時はそうではなかった。
原田 当時は仇討ちは美徳とされていました。
佐野 医療でも同じではないでしょうか?現在のテクノロジーの進歩は素晴らしい。でも120年後から見たら、どう見えるのか。かつては姥捨て山のようなことが当然とされていた時代もあったと言います。そこには家族の苦渋の決断があったかもしれないし、当たり前のこととして、神事のように感じていたかもしれません。死に対する家族の責任のありかがはっきりしていたことでしょう。そのことを想うと、最先端医療による治療が、将来、どのように見えるのか非常に考えさせられます。
原田 医療の場合、テクノロジーと死生観は切り離せません。病院に運ばれてきたら、医師は絶対に死なせないようにする。つまりなんとかして心臓を止まらせないように処置する。数十年前までは、自分の口でご飯を食べられなくなれば衰弱していって死んでいくのが当然でした。延命治療というものができなかったんです。しかし、今は違います。そうなると違う問題が出てくる。心臓は動いていればいいのか、脳波があればいいのか。それが患者にとって本当に幸せなのか。佐野さんのおっしゃるように人間の幸せとは何なのか、人の命とは何なのかという哲学問題が医師に突きつけられます。
佐野 先ほど話に出たように山陰は神話の国であると同時に、写真機材のようなかつてのハイテクとの親和性もある。実はそこに糸口があるような気がするんです。神話の時代には、製鉄技術などの当時の先端技術がこの地にあったはず。信仰心とハイテク技術が共存する、古代のシリコンバレーのような場所だったかもしれない。神話にも医療の話が出てきますよね。
原田 はい。因幡の白兎は、大国主命が兎を治療するという話でもあるんです。話の舞台は鳥取の白兎海岸なんですけれど、大国主命は出雲に戻る途中、米子市の近くの手間という場所で兄神たちが落とした焼いた石で殺されてしまう。彼を蘇生させたのが、蛤貝比売と𧏛貝比売。二人は貝殻を砕いて焼いて、母乳を混ぜて蛤の汁に溶いて塗ったとされています。
佐野 カニジルならぬ、カイジルで大国主命を救った(笑)。
原田 松江市の「法吉神社」では、「宇武加比比売命」の名で蛤貝比売を祀っています。
佐野 この地に当時の最先端医療が存在したという一つの証拠かもしれませんね。
原田 佐野さんとお話していると、本当に時空を飛び越えているような錯覚に陥ります。大局的な時間軸から物事を考えるというのは、昔からだったのですか?
佐野 出雲の人間として自分の中にそうした資質がもともとあったのかもしれません。また俳優の仕事を通して得てきたことも大きいでしょう。古代が昔のことだと思えない。振り返れば、4歳ぐらいのときに時空の捉え方に対する原体験があったかもしれません。自分は窓辺に座っているのに、天井の隅っこからそれを見ているという幽体離脱的な体験をしたことがあったんです。
原田 佐野さんが著書『こんなところで僕は何をしているんだろう』で書かれていた世阿弥の「客観視」の話を思い出します。舞台役者の客観視は、自分の状態を冷静に客席から観るのではなく、舞台の背景から自分の背中、そして正面、客席まで観て取るものだと。
佐野 ええ。演出家から教わりました。それで4歳ぐらいの時のことを思い出したんです。世阿弥の言ってることと同じじゃないかと。じゃあ、もっとちゃんと芝居をやれって話になりますけど(笑)。
原田 客観視という意味からも、佐野さんにとって俳優は天職だったのかもしれませんね。もし自分が医者になっていたらどうだろうって想像することはありますか?
佐野 想像します。向いていなかった。間違いなく医療ミスを犯してますね(笑)。
原田 佐野さんは医師の役を数多く演じてられますよね。医療が身近にあったいた環境で育ったということで、医師を演じるのは他の役柄よりも楽ですか?
佐野 (大きく手を振って)楽じゃないですよ。専門用語が多いし大変です。中学高校、好きなことばっかりやっていたツケが回ってきたなぁって(笑)。『私の運命』(1994年TBS)の時は本当に大変でした。腹腔鏡手術が始まった頃で、天才的な腕前を持つ外科医という役柄でした。今でも"VATS(バッツ)って、video-assisted thoracic surgery〞(ビデオ補助胸腔鏡手術)というセリフは覚えています。
原田 VATSは肺の手術ですね。
佐野 ええ。本当に初期の頃で、広尾にある日赤病院の胸部外科の先生にいろいろと教わりました。
原田 映画『チーム・バチスタの栄光』の外科医師役も印象的でした。
佐野 映画のなかで(手術中の)手元から顔にカメラのレンズが向けられる場面があったんです。そのために四六時中縫合の糸を素早く結ぶ練習をしたり、自分専用の持針器やピンセットも頂いて、豚の心臓などを使って練習してました。(医師を演じる俳優は)みんなものすごく練習していました。今では全く忘れちゃいましたけど(笑)
原田 佐野さんの医師役は本当にハマり役だと思いますよ。
佐野 祖父や父親たちの背中を見て育ちましたから、医師の佇まいばかりは受け継いでいるんでしょうかね。正月になると親戚が集まっていたんですが、みんな医者です。内科、外科、婦人科。正月なのに患者の話、病気の話ばかりしている。患者のことを思いやるけれど、心情的に引っ張られていては仕事はできない。そんな風な医者の佇まいが、身に染みついているのかもしれません。
(注1)森山大道 1938生まれ。デザイナーから転身し1964年にフリーの写真家として独立。「アレ・ブレ・ボケ」と評される独特の作風で知られる。海外でも高く評価されている。
(注2)塩谷定好 1899年生まれ。芸術写真の分野で国内の草分け的存在として活躍。生涯にわたって山陰地方の自然を撮り続けた。
佐野史郎ニューアルバム 『禁断の果実』
SKYE(スカイ)は日本のロック黎明期、鈴木茂(g)、小原礼(b)、林立夫(ds)らにより結成された伝説のバンド。その後、彼らは『はっぴいえんど』、『ティンパンアレイ』、『サディスティック・ミカ・バンド』のメンバーとなる。佐野史郎はこうした音楽を愛し続けてきた男である。
今回のアルバムは、SKYE、そして日本のポップ、ロックシーンを牽引してきた松任谷正隆を迎えて制作された珠玉の一枚だ。
佐野史郎 meets SKYE with 松任谷正隆 The members of SKYE are 鈴木茂、小原礼、林立夫
俳優 佐野史郎
島根県松江市出身。1955年3月4日生まれ。 1975年劇団シェイクスピア・シアター(出口典雄主宰)の創立に参加。1980年劇団状況劇場(唐十郎主宰)入団。退団後、1986年『夢みるように眠りたい』(林海象監督)で映画主演デビュー。1992年ドラマ『ずっとあなたが好きだった』(TBS)のマザコン男、冬彦役が社会現象になる。2007年よりギターリストの山本恭司と『小泉八雲 朗読のしらべ』を継続、国内はもとよりギリシャ、アイルランド公演も行なう。2019年10月にはアメリカツアーを行なった。
鳥取大学医学部附属病院長 原田 省
1958年兵庫県出身。鳥取大学医学部卒業、同学部産科婦人科学教室入局。英国リーズ大学、大阪大学医学部第三内科留学。2008年産科婦人科教授。2012年副病院長。2017年鳥取大学副学長および医学部附属病院長に就任。地域とつながるトップブランド病院を目指し、診療体制の充実と人材育成に力を入れている。また、職員一人ひとりが能力を発揮できるような職場環境づくりに積極的に取り組んでいる。好きな言葉は〝意志あるところに道は開る〟』