私の専門分野である生命科学を含む「Science(自然科学)」は、自然現象を対象とする学問の総称です。それが「Fiction(創作、架空)」とは、どういうことなのか―科学における不正・怠慢・バイアスがなぜ起こってしまうのかを、この『Science Fictions あなたが知らない科学の真実』では、数多くの具体例とともに解説しています。
鳥取大学では、1990年に全国で初めて医学部の中に生命科学科が設立されて以来、医学分野における生命科学研究者を数多く輩出してきました。生命科学研究は、新たな予防薬・治療薬や治療法を開発する上で、非常に重要な学問分野です。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染者数が予想よりも大きく抑えられた要因の一つとして、ワクチン接種が挙げられます。生命科学研究者のカタリン・カリコ博士らが1997年ごろから基礎研究を始め、今回のメッセンジャーRNA(mRNA)という遺伝物質を利用したワクチン開発の成功につながりました(2023年ノーベル生理学・医学賞受賞)。
関連研究として、私もこれまでに独自の染色体工学技術(染色体を操作して遺伝子を導入する技術)を用いた完全ヒト型抗体産生マウスの開発に成功しました。このマウスは、COVID-19などの新興・再興感染症に対応する新しい治療薬(抗体医薬品)の創出に向けて重要な役割を果たしています。
そんな生命科学の研究者である私にとって、印象に残ったのは、〈ある企業の研究者が一流の学術雑誌に掲載された、実験動物や細胞を使った非臨床研究(患者における臨床試験の前段階)の再現性実験を行った結果、再現できたのはわずか11%だった〉という部分でした。
再現性とは、論文などで公表された実験データが、他の研究者が同じ実験を行なった場合でも、同様の結果が得られることを意味します。これは基礎医学研究を行う上で最も重要な要素です。再現性が低い研究があるだろうと感じていた私でも、本書に示された具体的な数字には驚きました。このような結果になる要因の一つは、論文に正確な情報が記載されていないことだと著者は指摘しています。
再現性が低い理由として私が付け加えるとすれば、実験データの精度です。実験データは、実験方法、実験環境、そして研究者の手技によって結果が変わる可能性があります。私個人としては、論文にできる限り詳細なプロトコル(手順)を記載、共同研究者に資材や技術を提供する際には、論文に書ききれない実験の"コツ"も伝えるようにしています。それが可能な限り再現性を担保すると考えているからです。
もう一つ印象に残ったのは、〈なぜ、公表された研究結果の大半が誤りなのか。その背景には、詐欺、バイアス、過失、誇張の4つの要因がある〉という箇所でした。
詐欺に関しては、STAP細胞事件(研究不正)を思い浮かべる方も多いでしょう。あの事件が起きた2014年以降、日本全国の大学で研究倫理教育が実施され、大きな不正はほとんどなくなったと考えます。4つの要因の中で、私が特に注目したのは「過失」です。人間である以上、サンプルの取り違いや数値の入力ミスなどは避けられない。私自身、論文作成時にうっかり誤ったデータを貼り付けてしまったことがあります。幸い、投稿前に気づいて修正できましたが、ヒヤリとする経験でした。また、大学院生への研究指導は非常に時間がかかりますが、科学研究における問題をできるだけ起こさないための最も大事な期間だと私は考えています。
最近では、膨大な実験データを1つの論文にまとめる必要があるため、ミスが起こりやすくなっています。そのため、研究担当者、責任者、共同著者が全員で確認作業を行なっています。しかし、多忙のあまり(言い訳にはできませんが)、その確認作業がおろそかになる場合もあります。そうしたリスクを軽減するために、AI技術や新たなソフトウェアなどの先端技術を活用していかねばなりません。
本書は、多くの事例を紹介することで、科学研究にあまり接したことのない方々にも問題点を分かりやすく解説しています。そして、私たち研究者にとっても、改めて確認すべき多くの教訓を得ることができました。研究者、あるいは研究者を目指す学生、そして科学研究を支えるすべての方々におすすめしたい一冊です。
香月康宏 (かづき やすひろ)
1977年京都府生まれ。鳥取大学医学部生命科学科卒業後、同大大学院医学研究科博士前期課程および後期課程修了(生命科学系専攻)。2003年より日本学術振興会特別研究員、2005年より同大大学院医学系研究科助教、2015年より同准教授を経て、2022年鳥取大学医学部生命科学科 教授に就任。2025年より鳥取大学染色体工学研究センター センター長を併任。