評者 鳥取大学医学部附属病院 卒後臨床研究センター長 教授 山田七子
本書は、2023年夏の甲子園大会で「エンジョイ・ベースボール」を掲げて優勝した慶應義塾高等学校野球部のノンフィクションである。
チームを率いた森林貴彦監督は「まかせる」リーダーと評され、指導方針の基本は「『まかせられる喜び』を感じてほしい」である。しかし、ただ『まかせる』だけでは良い指導にはならないと彼は言う。森林監督の『まかせる』とは、『まかせる』と『待つ』のセットであり、知識や方法を伝えて正解を教えることと、本人に考えさせて学びを得てもらうことのバランスをとりながら指導している。
私の心に突き刺さった一節である。
〈たしかにウチは自主性や主体性を大事にしているし、自ら考えることを大切にしています。でもすべてをまかせているわけではなくて、時期や相手によってはティーチングに重きを置くときもある。そんな中でも、『まかせる』ことの比重は高くしてやっています。10年後や20年後を考えた時、その選手がどう成長できるかを考えたら、まかせて待つ方が絶対にいいですから〉
私は皮膚科医であり、とりだい病院の『卒後臨床研修センター』のセンター長でもある。卒後臨床研修センターとは、医学部の卒業生を対象とした研修期間である。私がいつも頭に置いているのは、〈やってみせ 言って聞かせて させてみせ ほめてやらねば 人は動かじ。話合い 耳を傾け 承認し 任せてやらねば 人は育たず。やっている 姿を感謝で見守って 信頼せねば 人は実らず〉という山本五十六(故・日本海軍連合艦隊司令長官)の言葉だ。
ただし、実践は本当に難しい。森林監督の『まかせる』と『待つ』とのバランスという考え方を読み、信頼して待つこと、相手が考えていることをよく聞いた上でまかせることの大切さと難しさを改めて感じた。
このような森林監督の指導方針は『「勝利至上主義」に対するアンチテーゼとしての「成長至上主義」です』という言葉でも表現される。森林監督は甲子園制覇を果たした直後に、3年生の生徒に「この甲子園優勝というのを人生最高の思い出にしないようにしよう。みんなはまだ何十年も生きていくので、これを糧にしてもっと素晴らしい経験をしてほしい」と語ったそうだ。
この言葉は、勝利者だからこそのインパクトもあるとは思うが、野球の価値や意義を、野球を通じて個人やチームが成長することで伝えたいという、監督の信念であり、強い野球愛があってこそ生まれるのだと思う。
もう一つ印象に残ったのは、慶應高校野球部にある「学生コーチ」という慶應高校を卒業したOBの慶大生が後輩の練習をサポートする特有の指導制度の存在だ。森林監督も、慶應大学進学後「学生コーチ」を経験している。その際に自分が高校生に行なった助言により目の前の高校生が急速に変化し成長していく姿を見て、学生コーチとして携わることの喜び、また自身のスタイルも自分本位の姿勢から相手本位の姿勢に変わったという。多くの慶應高校野球部のOBが学生コーチを経験し、「日本一の陰の立役者」としてチームに関わってきている。学生コーチは、〈監督の信頼を受けながら、選手達の自主性を引き出す役割を担って〉おり、自由闊達な指導を許されていると同時に、方針を最後に決めるのは監督であることも彼らの中では徹底されており、野球部の「中間管理職」的な役割を担っているのだ。
本書では、長い時間をかけ培われてきた慶應高校から慶應大学へとつながる独特な環境、毎年変わる選手の個性やチームの雰囲気、そのような中で選手・学生コーチ・監督それぞれが自分たちの方法に自問自答を繰り返しながら勝利を目指してきたかも知ることができる。様々な立場で指導方法を模索している方、どうぞご一読ください。
山田七子 (やまだ ななこ)
1967年鳥取県生まれ。鳥取大学医学部医学科卒業後、鳥取大学医学部皮膚科入局。松江赤十字病院、米国ボストン大学医学部リサーチフェローなどを経て、2004年鳥取大学医学部皮膚科講師。2021年卒後臨床研修センター長、教授に就任。2023年4月からはワークライフ支援センター長も兼任している。