人との出会いが、人生を変える大きなきっかけになることがある。
宮脇にとって日本有数の救命医である上田敬博との出会いがそれだった。
熊本地震の災害支援現場という厳しい状況で時間を共にする中で、宮脇は救命救急ナースへの道を歩み始めた。
そして上田の誘いで米子にあるとりだい病院へ――現在は、高度救命救急センターで上田の右腕として、そしてフライトナースとして研鑽を積んでいる。
車窓から広がる景色に上田敬博は言葉を失った。福岡県生まれの上田にとって熊本県は家族旅行で何度も訪れた思い出の場所だった。美しい阿蘇山の周囲の道が完全に破壊されていた。自分の大切にしていた記憶が破壊されたような気分になった。
2016年4月14日から16日にかけて、熊本県と大分県で相次いで地震が発生した。最大震度は、震度階級で最も大きい「7」。熊本地震である。兵庫医科大学病院救命救急センターにいた上田は、震災直後の4月16日から2泊3日、その後、29日から兵庫県救護班の第2陣メンバーとして震災現場に入っている。被害の大きさをまざまざと感じたのは2回目、南阿蘇村役場を中心に車で回ったときのことだった。そのとき、車に同乗していたのが、看護師の宮脇貴浩だった。
上田と宮脇が顔を合わせたのは、兵庫医科大の会議室だった。
「彼の所属はHCU。だから顔を見たこともない。誰っ? ていう感じでした。HCUで被災地に行きたいと手を挙げる人は珍しいなと思っていました」
HCUとは高度治療室を意味する。一般病棟と集中治療室の中間に位置し、準緊急治療室と呼ばれることもある。上田の所属する救命救急センターと比較すると緊急性、重篤性は低い。被災地を回る車の中で、宮脇は上田に、介護士となった後、働きながら看護師免許を取得したのだと生い立ちを話した。やる気がある子なんや、と上田は好ましく思った。じっと車窓を眺める宮脇の横顔を見て、彼の中で何かスイッチが入ったような気もした。
宮脇は1987年に和歌山県で生まれた。上に2人の姉がいる。子どもの頃から人と話をするのが好きだった。進路を考えたとき、子どもを扱う保育、あるいは介護が頭に浮かんだ。後者を選んだのは、同居していた祖父が病気がちだったからだ。困っている人の助けになりたいと考えたのだ。専門学校卒業後、大阪府内の介護施設で働き始めている。
入職して2、3ヵ月経った頃だった。認知症の患者の容態が急変、あっという間に息を引き取ったことがあった。人が亡くなるのを目の前にして自分は何もできなかったことが悔しかった。介護施設で働きながら学費を貯め、看護学校に通った。
「一人の姉はぼくと違ってすごく頭が良くて、看護師になっていたんです。姉に負けたくないっていうのと、そのとき『コードブルー』というドラマをやっていたんです。それを見てフライトナースって格好いいなと」
『コードブルー ドクターヘリ緊急救命』は、2008年7月からフジテレビ系で放映されたテレビドラマである。看護師資格取得後の2014年、兵庫医科大学病院に入職、HCUに配属された。
「上司に災害にも興味があります、チャンスがあれば行かせてくださいって言っていたんです。そうしたらHCUに入って3年目のとき熊本地震が起きた」
2017年4月、宮脇は上田の誘いもあり、EICU――救急集中治療室へ異動した。
「HCUの患者さんは(手)術後なので、比較的元気な方が多い。ところがEICUでは、運ばれてきた瞬間からベッドサイドで手術が始まることもある。ECMO(体外式膜型人工肺)など、これまで見たこともなかった器械もある。全く経験のないところに放りこまれて、最初は、えーっということばかりでした」
先輩たちによく怒られていましたと頭をかいた。EICUに慣れたある日、1人の巨大な男性が搬送されてきた。
「体重は200キロ近く、引きこもりの子でした。お尻に膿瘍ができていた。痛み止めを飲んで耐えていたようなんですが、動けなくなってしまったんです」
膿瘍とは細菌や虫により組織が腐り、膿が溜まることだ。その男は家族からも疎んじられており、セルフネグレクト(自己放任)ともいえる状態だった。
「運ぶのも救急隊だけでは無理で、(消防署の)レスキューの手も借りなければならなかった。彼の重さにベッドが耐えられるか心配したぐらい。治療後は良くなったり悪くなったり。治療を拒否したこともありました」
しんどいから、殺してくれ、と宮脇は言われたこともあった。誤嚥(食物が誤って気管に入る状態)を防ぐため主治医である上田が気管切開を行うことになった。手術後、宮脇は男にいろいろと話しかけた。数日後、男のベッドに行くと、「宮脇さん、いつもありがとう」という声が聞こえた。
「いつも担当するときは、今日担当させてもらう宮脇ですって自己紹介します。ただ、反応はなく彼が聞いていたのかどうかも分からなかった。その彼からお礼を言われたのですごく嬉しかった」
男は入院したばかりの頃、「自分で歩いて帰るのは無理や」と拗ねたような口調でうそぶいた。その彼が歩いて病院を後にした。彼は生活を変えて、社会の中で生きていくつもりになったのだと思った。救命救急の現場は社会の縮図、暗部と向き合うことだと宮脇は悟ったのだ。
その後、上田は近畿大学附属病院へ、宮脇も大阪府内の病院に移った。しかし、縁が切れることはなかった。
2020年4月、上田は鳥取大学医学部附属病院救命救急センター教授に就任した。当時、救命救急センターは崩壊寸前に近かった。事情を知っている100人に聞いたら99人はやめとけって言われたでしょうと、上田は笑う。立て直しのために、自分の考えを分かっている人間を何人か連れて行かねばならないだろう。医師はすぐに決まった。看護師として誰を呼ぶか。そのとき真っ先に頭に浮かんだのが、宮脇の顔だった。
「もう出来上がっている右腕的なナースもいいんですけれど、伸びしろというか、自分が伸びたいっていう意思がある人間が欲しいじゃないですか」
ただし、宮脇が本当に米子に来るとは思っていなかった。
「上にお姉さん2人で男の子は彼だけ。田舎では跡をとらないといけない。親から戻ってこいと言われているようなことを聞いていました。だからイチかバチかみたいなところがありましたね」
宮脇は、米子ってどこ? っていう感じだったと笑って振り返る。
「たぶんその日は、ちょっと待ってくださいって返事した気がします。鳥取は旅行で1回行ったことがあるぐらい。調べてみたら、ドクターカー、ドクターヘリもある」
兵庫医科大学のEICUにはドクターヘリは配備されていなかったが、ドクターカーがあった。しかし、EICUには120人を超える看護師が所属しており、ドクターカーに乗る機会は回ってこなかった。実家に近い和歌山医科大学附属病院にはドクターヘリがあった。帰省したとき、プロペラの音がすると目を背けた。もう自分はドクターヘリには縁がないのだと思い込んでいたのだ。米子に行けばドクターヘリに乗れるかもしれない。急に力が湧いてきたような気になった。
「兵庫医科大学で上田先生と一緒にEICUで働いたのは1年しかなかったかもしれないけど、すごく助けられた部分があった。せっかく声掛けてくれたんやから、恩返ししなきゃいけない。翌日、行きますって返事しました」
2021年4月、宮脇はとりだい病院の救命救急センターに入職した。上田は、熱傷患者が搬送されてきた例をとって、とりだいの現状をこう説明した。
――自分が患者を診て、手術をやると言ってから、みんなが動き出す。兵庫医大では、搬送された瞬間に、看護師たちは(患部を)洗浄できる準備に入っている。そうでなかったら叱られるやろ。とりだい病院の人間はそうした経験がないだけ。みんな素直だから一気に変わる見込みがある。
中でも医者一人で変えられることは限られている、という言葉が宮脇の心に響いた。自分が率先して上田の考えを体現しなければならないと覚悟した。
そして2022年9月、ドクターカーにも乗り始めた。
「ドクターカーに乗るようになると紺色のユニフォームに替わるんです。自分がこの服を着れる日が来るとは思わなかったんです。でもドクターカーに乗ったからといって、すぐにドクターヘリに乗れないのも分かっていました」
ドクターヘリ搭乗資格は、日本航空医療学会の選考基準に加えて、各病院の選考基準がある。宮脇がドクターヘリに搭乗するフライトナースとなったのは2024年9月のことだ。
「フライトナースになれるって決まったとき(和歌山の)家族に最初に報告しました。母や姉は泣いて喜んでくれました。姉は結婚してフライトナースを諦めたんです。していなかったら私も目指していたかもしれないと明かされたことがありました」
ヘリコプターという不安定な乗り物に常に乗ることもあり、配偶者の許可を取らねばならないのだ。母と姉から鳥取に行って本当によかったなと言われて、改めて喜びがこみ上げてきた。
フライトナースとして初めて勤務した日、朝から2度の出動要請がかかったが、どちらもキャンセルとなった。初めてドクターヘリに乗ったのは3度目の出動要請のときだった。
「無我夢中で何も覚えていないです。最低10症例は先輩ナースと一緒に乗るんです。分からなければ聞けばいいと思いながらも、ずっと変な汗が出ていました」
今、宮脇はフライトナースとしての経験を積んでいる最中である。フライトナースの勤務日が終わって家に帰ると、動きたくないほどぐったりとしているという。
とりだい病院の高度救命救急センターの雰囲気も一変した。特に上田の専門である熱傷――やけどの対処はすでに日本最高レベルに達している。変化の手応えを宮脇は感じている。
「(緊急搬送された患者の熱傷面積が)40パー(セント)、50パーって聞いたら、他の病院ならばえーってなるでしょう。とりだいでは、それぐらいやったらなんとか助けられるとみんなが思うようになった」
一般的には熱傷面積が30パーセントを超えると死亡リスクが非常に高くなるとされている。上田は、近畿大学病院在籍時、90パーセントの熱傷を負った京都アニメーション放火殺人事件の容疑者を、とりだい病院赴任後、熱傷面積95パーセントの患者の命を救った実績がある。
「ぼくが偉そうなことは言えないんですが、全てのレベルが高くなっている」
伸びしろを見込まれて米子にやってきた男は、上田の頼もしい「右腕」となっているのだ。
文・田崎健太
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家、『カニジル』編集長。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)『電通とFIFA』『真説・長州力』『真説・佐山サトル』『スポーツアイデンティティ』など。最新刊は『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』(カンゼン)。小学校3年生から3年間鳥取市に在住。2021年に(株)カニジルを立ち上げ、千船病院広報誌「虹くじら」、近大病院がんセンター広報誌「梅☆」を制作している。
写真・馬場磨貴(うまば まき)
東京都生まれ。美術大学油絵科在学中から写真を撮り始める。卒業後、大手新聞社の出版写真部に勤務、フォトグラファーとして多くの企画に携わる。2002年 文化庁在外研修生として渡仏。帰国後は東京を拠点に活動 文化学園大学、日本写真芸術専門学校講師。第33回 太陽賞 ・準太陽賞受賞、第5回 Canon写真新世紀佳作受賞。写真集に『 We are here/ 赤々舎』、『 ABSENCE / 蒼穹舎』、『 Donor/IRIS ARLES』などがある。今号からカニジルの表紙及び鳥大の人々を担当。
宮脇貴浩(みやわき たかひろ)
1987年和歌山県生まれ。2008年大阪保健福祉専門学校介護福祉科卒業。介護福祉士として社会福祉法人博光福祉会寿里苑フェリスに勤務。2011年行岡医学技術専門学校看護第一学科に入学。2014年に同校を卒業、看護師として学校法人兵庫医科大学病院に入職する。大阪市内の総合病院勤務を経て、2021年4月鳥取大学医学部附属病院に入職。救命救急センターへ配属。2024年より念願だったフライトナースとなり、日々研鑽に励んでいる。