「神の宿る心臓だけは傷つけてはならない」、古代ギリシャの哲学者アリストテレスの言葉である。臓器の中でも生命維持にとって一番大切な「心臓」の手術は最も難易度が高く、医療の歴史において長いあいだ未踏の領域とされていた。心臓の動きを止めてしまうと生きていけないからだ。人工心肺をはじめとする医療機器の発達によって安全に心臓手術が行えるようになったのは、20世紀後半になってからのことである。
日々進化を続ける「心臓」に関する最前線を取材した。
心臓の働きを一言で表現するならば、体の中で血液を循環させる「ポンプ」だ。肺から取り込んだ酸素を血液の循環で体のすみずみまで運び、同時に体の中で作られた二酸化炭素を体外に排出する。この心臓の周期的な収縮運動がおかしくなる状態のことを「不整脈」と呼ぶ。
「不整脈にはさまざまな種類がありますが、なかでも発症する頻度が多く、他の病気の原因にもなるため特に注意が必要なものに『心房細動』という疾患があります。これは心房という部屋の筋肉の一部がブルブルと震えて、痙攣を起こしているような状態になるのです」
そう語るのは、とりだい病院循環器・内分泌代謝内科学分野講師の衣笠良治だ。循環器内科医は心臓や血管を中心にして、血液の流れに関する疾患を専門的に扱う。
心臓は、右心房、右心室、左心房、左心室と呼ばれる4つの部屋が、それぞれに適切なタイミングで「拡張」と「収縮」を繰り返している。
「痙攣を起こすと心房の中の血液を充分に送り出せなくなるので、流れが淀んで血栓と呼ばれる血の塊ができることがあります。その血栓が血流に乗って頭の方に流れてしまうと、脳の血管が詰まる脳梗塞の原因になることがあるんです。また、心臓の働きを悪くする『心不全』の原因にもなります」
放置すると怖い病気なんですと衣笠は強調する。
心房細動と心不全はコインの両面のようなものだ。心不全は、『心臓の働きが悪く、それが原因で息切れやむくみといった症状がでること』と定義されている。
心房細動が原因で心不全になってしまう場合もあれば、逆に、心不全になったことで心臓に負担がかかり心房細動が起こることもある。また心房細動を起こすことで心不全を悪化させ、そうなると余計に心房細動が治りにくい、まさに悪循環に陥ってしまう。
「いくら薬で心房細動を抑えても、長い目で見ると結局、患者さんの寿命はあまり変わらない。でも最近は、カテーテル手術で新しい治療ができるようになってきた。心房細動の原因となる異常な電気信号が起こっている部分を、冷却したり焼灼したりすることで、その乱れを整えることができるんです。これによって、薬での治療が難しかった患者さんも治療ができるようになってきました」
カテーテル手術というのは、足の付根にある大腿動脈という血管からカテーテルと呼ばれる細い管を入れて心臓まで通し、血管内から治療を行う手術のことだ。従来の外科的な手術よりも体への負担が少ないので、術後の回復が早く合併症のリスクも低いという特徴がある。
心臓を扱うのは循環器内科ともう一つ、心臓血管外科である。
心臓血管外科医として、「心臓弁膜症」の患者を扱ってきたのが、とりだい病院心臓血管外科教授の吉川泰司だ。高齢化に伴い患者数が増えていると吉川は指摘する。
「心臓弁膜症は加齢による影響が避けられない。例えば心臓の弁が分厚くなる肥厚だとか、石灰が付着して硬くなるのを遅らせるということは、今の医学ではまだ難しいんです」
左心室の入口に「僧帽弁」、出口に「大動脈弁」、右心室の入口に「三尖弁」、出口に「肺動脈弁」という血液の逆流を抑える「弁」がついている。心臓弁膜症とは、加齢や感染症などの問題によって、これらの「弁」が正常に機能しなくなる状態の総称である。
治療方法の一つは「弁」の置き換え――弁置換術である。
人工心肺という装置を用いて心臓と肺の働きを代行、一時的に患者の心臓を停止させた状態で切開して手術を行う。これが「開心術」という術式だ。心臓を停止させるため、安全な手術時間は4時間まで。術者は、迅速かつ正確な技術が求められる。
近年、開心術以外にも、TAVI(Transcatheter Aortic Valve Implantation)と呼ばれるカテーテルを使った手術が可能になった。
カテーテルは、患者の身体への負担が少ない「低侵襲」手術である。ただし、と吉川は留保をつける。
「日本ではTAVIが保険で受けられるようになってから、まだ11年。海外でも保険診療になったのは2000年代後半なので、まだカテーテル手術で使う人工弁自体が長持ちするかどうか誰にもわからない。例えば70歳の人にカテーテルを入れると、10年後に80歳で弁がダメになるかもしれない。でも、そこでもう1回カテーテルを入れるとなると、場合によってはできないこともある」
開心術では、確実に機能が15年持つことが実証されている人工弁を使用する。今の日本のガイドラインでは、基本的に80歳以上の人はカテーテルの弁、75歳から80歳はどちらを入れるか議論する。75歳未満の後期高齢者になる前の人は開心術を行い普通の人工弁を入れるほうがいいとされている。
この人工弁には2種類ある。一つは牛や豚などの組織を使って作られた「生体弁」。もう一つは、特殊なカーボン素材で作られた「機械弁」だ。機械弁は耐久性に優れており、半永久的に使用することができる。ただし、血液が接触すると血栓ができやすいという特徴があり、血が固まるのを防ぐ抗凝固剤(ワーファリン)を、一生を通じて服用し続けなければならない。
「抗凝固剤を服用すると出血しやすい状態になります。脳出血や消化管出血というような入院を要する出血に対して年1%のリスクがあると言われています。100人中1人というのを、多いとするか少ないとするか。若い人は薬の管理もできるし、組織もしっかりしているからいいかもしれない。でも高齢者には転倒や薬の飲み忘れという心配もあるので、機械弁を全員に勧めることはできません。高齢化した非常に手術リスクの高い人たちに対して、画一的な治療ではなく、一人ひとりに最適な治療が何かを個別に考えて〝テーラーメード医療〟をすることが求められるのです」
前出の心不全という言葉はしばしば耳にする言葉である。この心不全の捉え方自体が変わってきたと衣笠は言う。
「循環器の世界では、高血圧とか糖尿病といった時期から、もう心不全の予備軍であるという考え方になってきています。病気にならないようにするのが1次予防ということになります。病気になってからそれ以上悪くならないようにするのが2次予防。高血圧、糖尿病は1次予防の範疇に入る。高血圧などが判明したら早めに介入して、将来心臓がダメになるような病気にならないようにしていこうという考え方なんです」
心臓疾患の主な自覚症状としては、動悸、息切れ、乱脈、足のむくみなどがある。自覚症状がでるのが遅い傾向があり、多少の症状があっても年のせいだと思い見過ごされることも少なくない。隠れた病気の見落としを防ぐためには、やはり定期的に検診を受けるということが重要になってくる。
最近注目されているのが、「Apple Watch」のアプリでの不整脈検出だ。普段身につけるガジェット(デジタル端末)を使用して長期的に脈拍を計測するため、ごくまれに出る不整脈でも検出が可能だ。他にも服の下に付けて24時間計測できる機器、自分で取り外しのできる携帯型の心電図計、皮膚の下に埋め込んで年単位で計測できる機器なども開発された。
ただし、である。
機器に頼り過ぎることにも注意が必要だと吉川は指摘する。
「もちろん胸のレントゲンやCTを見て分かる場合もありますけど、どうしても見逃すということがありえます。一方、弁膜症の患者さんに聴診器をあてると心臓の雑音が聴こえます。心雑音は一般の人が聴いても明らかですから、医者が聴診したら一発でわかるわけです。今は聴診に頼らなくても診断ができますけど、昔の医者は聴診器一本でいろんなことを診断していました。やっぱりそこに立ち返るということも大事なんです」
吉川はとりだい病院の心臓外科教授に就任した際、周辺の開業医50施設を回って挨拶、同時に「聴診器を使ってください」と啓発していったという。その受け皿としてとりだい病院に「心雑音外来」を作って、クリニックの先生が大学病院を紹介しやすい環境も整えた。敷居を下げて来院を促すことによって、すでに何人もの患者さんが聴診器をきっかけにして弁膜症の発見から手術にまでつながるという成果が出てきている。
この他にもロボット支援手術の導入など、心臓に対する治療や検査の方法は日々進化を続けている。しかしどんなに進んだ治療法にも必ずリスクは伴い、また一度壊れてしまった組織を完全に元通りの状態に戻すことはできない。だからこそ、ひとつしかない自分の心臓を守るためには、まずは病気にならないように予防することがもっとも重要だ。
「あまり目新しいことではないかもしれませんが、食生活の改善や適度な運動習慣などといった、ほかの病気を防ぐための知識を活かし実践することが心臓の病気にとっても有効な予防法です」(衣笠)
生活習慣の改善が、心臓を守るための最善の方法にもなるのだ。