新型コロナウイルスの影響で病院はおろか日本全体が混乱し、全く先の見えないなかで森田の副病院長・看護部長としての日々はスタートした。ひとつのクラスターが終わると、また次のクラスターが発生する。たえず非常事態に対応しなければならない状況にあって、そんな時だからこそ大切にしたのは“コミュニケーション”と“透明性”だった。
その人が今、何を求めているのか、何に困っているのか。手術看護師時代の経験が原点だと言う森田は、常に先回りして一歩先を考え行動する。
自分が鳥取大学医学部附属病院の看護部長に推薦されると聞かされたのは、2021年12月のことだった。
「(前任の看護部長である)中村(真由美)部長から呼ばれて、次の看護部長に推薦すると言われました。それまでも次を任せるという話をされたことはありました。ただ、絶対に自分がやるんだという意識はありませんでしたね」
とりだい病院の看護部は約900人。〝部〟としては最大である。副病院長を兼任する看護部長は、病院長と並ぶ病院の顔だ。
看護部長は選考委員会での面接、書類審査を経て決定する。2022年4月、森田理恵は正式に看護部長に就任した。
「副看護部長として中村看護部長と一緒にやってきたので、やるべきことは分かっていました。ただ、実際になってみると風景が違っていましたね。これまでも副師長から師長、師長から副看護部長と職位が上がると、景色が違うとは感じていました。看護部長は病院全体としての看護部、国立大学病院の中でのとりだい病院看護部という視点になります。自分たちがいいと思っていたことが、本当に正しかったのか。他の国立大学病院が先を行っている部分はあるか。とりだい病院の強みは何か。そうしたことを考えるようになりました」
森田が看護部長となったのは、新型コロナウイルスという濃い霧が社会を覆う時期と重なっていた。とりだい病院は新型コロナを含めた2類感染症を受け入れる「第二種感染症指定医療機関」だった。
「すでに鳥取県で新型コロナ罹患者が出ていました。私が看護部長になった頃から、病院内のスタッフに患者がぽつぽつ出始めたんです」
この頃、新型コロナの情報は限られていた。鳥取県は最後まで罹患者が出なかった都道府県の一つだった。未知の感染症に対して、住民はかなり神経質になっていた。
まずコロナ罹患者と判明した看護師たちに聞き取りを行う。患者、同僚などとの接触履歴、マスク着用の有無を確認。濃厚接触者と判定された人間も自宅待機となる。
「この聞き取りにかなりの時間がとられました」
森田は当時を思い出して首を振った。
「とりだい病院では元々、看護師が不足した場合、別の部署から回すというリリーフ体制を構築していました。足りなくなった部署に勤務経験のある看護師を他部署から回す。受け入れる側では他部署の看護師で補える仕事を調整するんです」
新型コロナの影響はこうした備えを大きく超えることになった。
「例えばコロナになった、あるいは濃厚接触者となった看護師が夜勤だった場合、他の看護師のシフトを変えなければならない。その日、翌日以降の勤務者、勤務時間も変更しなければならない」
新型コロナ罹患者を受け入れる感染病床の看護師を集めることにも苦心した。感染病床の担当をするならば、家に帰ってこないで、ホテルなどに泊まってほしいと言われた看護師もいたという。
「それぞれ師長たちは、自分たちの部署の患者さんを守らねばならない。その気持ちは分かります。しかし、コロナに罹患した患者さんの対応も絶対に必要。それでも行ってくれというのを日々言い続けるしかなかった」
もともと人員に余裕があるわけではない。感染病床に看護師を出す、他部署へのリリーフは、誰かにしわ寄せがいくことになる。
「師長たちからどこの病棟で(スタッフに)クラスターが出たのか知りたいという声があがりました。そこで週に一度、看護部でコロナ会議をオンラインで行い、情報共有しました」
クラスターとは本来〈群れ〉を意味する。コロナ禍では、複数感染者の発生を指すようになった。
病院内で罹患者が急増し、看護部崩壊という単語が何度か頭をよぎった。とりだい病院は地域の基幹病院であり、医療の最後の砦である。絶対に崩壊させてはならない。
「そこで何か困ったことないですかという感じで、各部署の問題点を師長から拾って解決策を考えるということをしていました」
森田は1967年に米子市で生まれた。元々は保育士になりたいと朧気に考えていたという。通っていた高校には看護師を目指す同級生が多かった。そこで国立米子病院(現・米子医療センター)附属看護学校に進むことにした。看護師だった母親は喜びながらも「大変だよ」と言った。そのとき、小さい頃、母親は夜勤で家にいなかったことを思い出したのだ。
卒業後、神奈川県リハビリテーション病院、松江医療センターを経て、96年に鳥取大学医学部附属病院の手術部に入職した。
「神奈川県リハビリテーション病院ではICU(集中治療室)とオペ(手術)室が一緒になっていたんです。だから手術部でもある程度、できるつもりだったんですが、とりだい病院では全診療科の外科手術に対応しなければならない。もう覚えることだらけでしたね。もうプライドは全部捨てて、底辺から始めました」
手術看護師の役割の一つは、「器械出し」である。執刀する医師の側に立ち、器具を渡す――。
「手術の流れを読んで、次はこの器具が必要だろうって先回りするんです。テンポよく渡すと、手術は早く終わる。そうなれば患者さんの身体への負担が少ない」
手術前日、手順を理解するために解剖学などの書籍に目を通す。また、診療科によって使用器具は違うのはもちろんだが、渡し方も変える。
「手術を行う医師は、切開した部位から目をそらさない。基本は器具を渡しましたと伝えるためにバシッと渡します。ただ、脳神経外科の手術ではデリケートな器具が多いので、そっと渡さなければならない。慣れてくると流れの中で器具が出せるようになる」
そのときは手術看護師をしていてよかったと思いましたねと微笑む。
「だいたい(一つの科で)一人前になるのは、3年かかるって言われています。とりだい病院のように複数の診療科を担当する場合は、勉強は終わらないですね。病棟の看護師は、患者さんからありがとうって言われることもあるんですが、手術部では、麻酔がかかっている患者さんと話をすることはない。患者さんからなにも言われないということは恙なく手術が終わったということ。言われないことがやりがいなんです」
看護師になったのは自分の強い意志ではなかった。手術看護師となり、自分が歩んできた道は正しかったのだ、これは天職ではなかったかと考えるようになった。
ごく稀に患者と会話を交わすこともある。ある日、子宮がんの知り合いの医師の手術を担当することになったのだ。
「ずっと一緒に仕事していた女性医師だったんです。すごく食べることが好きな方で、入院されたというので病室に行くと、塩鯖が食べたいなんてことをおっしゃっていた。手術終わった後に食べられたらいいね、なんて話をしていたんです。すると、お腹を開けてみると、(執刀を担当する)先生が、これはもう摘出じゃないって。思ったよりもがんが進行していた」
彼女は麻酔がかかっていて眠っている。本人、家族も知らないことを自分は知ってしまったと、自分の仕事の重みを改めて感じた。
「彼女は当時50歳ぐらいだったのかな。糖尿の気があって、子宮にがんがあると分かってから、なかなか手術できなかった。ようやく手術にこぎつけてみたら、手遅れだった。すごく頑張って仕事をしていた彼女がなぜこんな目に遭わなければならないんだろうって」
後日、彼女の病室に行った。
「痛いところないですか、早くご飯食べられるようになればいいですね、など当たり障りのない話だけしかできなかった。彼女も医師なので自分の状態を分かっていたのでしょう、あまり元気がなかった」
彼女が亡くなったのはそれからしばらくしてからのことだった。
自分たちが患者と関われるのはほんの一瞬に過ぎない。だからこそ全力でやらねばならないと強く思った。
とりだい病院の看護部長である森田が現在、最も注力しているのは後進の育成である。
「医療現場でDX(デジタルトランスフォーメーション)、Ai(人口知能)の導入が進むのは間違いありません。ただ、人でしかできないことがあります。医師は常にたくさんの仕事を抱えています。手術、外来、あるいは学会などで外に出かけることも多い。患者さんにとっていい医療はなんだろうって考えると、常にそばについている看護師の役割が大きくなるんです。患者さんの病状に急変があったとき、的確な判断ができることなど、患者さんを守れる看護師を育てなければならない」
今年4月から医療従事者の時間外労働に上限が定められた。医療の「働き方改革」が始まっている。
医療の働き方改革において、看護師は鍵となる。これまで医師の専任事項とされていた分野、例えば麻酔に関しては周麻酔看護師という専門知識のある看護師が担うこともできる。一方、事務作業などを看護師以外に割り振るというタスクシフトが必須だ。
「私たちの時代と比べて、今の看護師は夜勤を避ける傾向があります。特にお子さんがいると保育園の送り迎え、そして当然のことですがお子さんとなるべく一緒にいたいという気持ちは理解できます。子育ては応援しなければならない。同時に看護師とは24時間患者さんに付き添わなければならない仕事でもある。そこで夜勤は必須になる。それを独身の看護師にだけ押しつけていいのか。夜勤をしてくれる看護師をどう守るのか」
今、彼女はその解を探し求めている。森田自身、独身時代から率先して夜勤をしていた。
「私はずっと結婚しないと思っていましたし、夜勤が負担でもなかったので、どうぞどうぞって引き受けてました。結婚したあとも、子育てはうちの母と父、そして夫に頼んでました。振り向いたら大きくなっていたという感じでした」
ただ、朝出かけるとき、子どもが「じゃあまた明日ね」と言ったときはハッとしましたね、と笑う。
「確かに私は朝早くから出かけて、帰ったときは子どもたちは寝ているなって」
最近、その娘が小学6年生になり、将来は看護師になりたいと口にするようになった。自分の仕事を認めてくれているのだと嬉しくなりましたね、と顔をほころばせた。
「看護師をしていると、他の病院の知り合いができたりして、世界が広がる」
看護という仕事はやり甲斐があると思うんですよと付け加えた。
文・田崎健太
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家、『カニジル』編集長。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)『電通とFIFA』『真説・長州力』『真説・佐山サトル』『スポーツアイデンティティ』など。最新刊は『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』(カンゼン)。小学校3年生から3年間鳥取市に在住。(株)カニジル代表として、とりだい病院1階で『カニジルブックストア』を運営中。
森田理恵(もりた りえ)
鳥取県米子市出身。1989年国立米子病院(現:米子医療センター)附属看護学校卒業。神奈川県リハビリテーション病院、松江医療センターでの勤務を経て、1996年鳥取大学医学部附属病院に入職。手術部へ配属。2003年放送大学教養学部卒業。2007年鳥取大学大学院医学系研究科保健学専攻修士課程修了。2008年日本看護協会が認定する手術看護認定看護師資格取得。2013年に看護師長、2018年に副看護部長。2022年4月より鳥取大学医学部附属病院 副病院長・看護部長となる。