能登半島地震にも出動! とりだい「DMAT」を知る

取材・文 西村 隆平 写真 中村 治


今年1月1日午後4時10分ごろ、
石川県能登半島でマグニチュード7.6、
最大震度7の揺れを観測する大きな地震が発災した。
厚生労働省からの要請を受けた鳥取県は、
石川県能登地方に向けて
災害派遣医療チーム――DMATを2チーム派遣した。
そのうち1チームが、
とりだい病院救命救急センターの大河原悠介助教たちの医師、
看護師ら6名で構成された「とりだいDMAT」である。


とりだいDMAT
(後列右から)本間正人教授、小林友希看護師、大河原悠介助教、池嶋一也看護師
(前列右から)雜賀真也臨床工学技士、涌嶋伴之助薬剤師

「我々が到着したとき、
病院の運営は
ギリギリの状態だった」

地震発生から6日後の1月7日昼過ぎ、鳥取県に異例の緊急招集の要請があり、DMAT4次隊として被災地の支援に派遣されることになった。高度救命救急センターに勤務する大河原悠介助教は、この知らせを聞いてまず驚いたという。

「通常は連絡があってから2、3日後までに行くことが多いのですが、今回は翌日の昼までに現地に到着するように言われました。距離的に近い関西地区をとばして呼び出されることも予想外でした」

石川県能登地方は大雪が予想されていたため、雪に強い鳥取県のとりだい病院のDMATが選ばれたのだ。

派遣されたのは6人、大河原の他、本間正人教授、池嶋一也看護師、小林友希看護師、涌嶋伴之助薬剤師、雜賀真也臨床工学技士。いずれもDMAT有資格者である。

DMATは災害現場で迅速に救命治療を行うための専門的なトレーニングを受けた『災害派遣医療チーム』(Disaster Medical Assistance Team)の頭文字をとっている。

とりだい病院の救急 災害医学分野教授の本間正人は日本の「DMAT」制度の立ち上げに関わったメンバーの一人である。

「主に活動するのは、災害サイクルの中でも最も早い段階の〝超急性期〟と呼ばれる期間。発災から72時間以内に現地に行って活動できる機動性を持っているのがDMATなのです」

大河原、本間たちはドクターカーと公用車の2台に乗り込み、陸路被災地に向けて出発した。大河原は現場に辿り着くのさえ、困難だったと振り返る。

「被災地が近づくと、土砂崩れや液状化による地面の隆起などの影響で道路があちこちで寸断されていて、なかなか進めない。自衛隊や警察の人たちがなんとか道を開いてくれていたのですが、金沢市から輪島市まで普段なら2時間ほどの距離に8時間以上かかりました。途中からは予想通りの大雪になって、場所によっては20センチほど積雪がありました」

活動場所である市立輪島病院に到着したのは8日の夕方になっていた。翌9日の朝から最初の任務である、入院患者の大半を外の病院に転院させる〝病院避難〟にとりかかった。

「地域に中核となる病院がここしかないので、外来を閉じることは絶対にできません。ただし、働くスタッフの皆さん自身が被災者で、すでに疲弊しきっていた。検査など病院の運営はギリギリの状態だったので、入院患者を転院させることでスタッフの負担を減らして、外来機能の維持を目指しました」

自衛隊の大型輸送ヘリ「CH47」などを使用して、多くの患者を被災地域外の病院に移送した。

「患者さんをドクターカーや救急車に乗せて、状態を観察しながらヘリが降りられる場所までお連れする。転院調整の役割もDMATが担いました」



DMATは被災地の
「黒子」でなければならない

とりだいDMAT

避難生活はどうしても密になりがちだ。インフルエンザ、新型コロナウイルス、ノロウイルスなどの感染症の症状を訴える外来患者がどっと押し寄せた。

「まずは手を洗うための水が出ない。それに数が多すぎて感染者を隔離することもできません。例え感染が判明しても避難所に帰すしかないこともありました。それでも重症化する患者さんがほとんど出なかったのは、コロナが出始めの時期ではなかったからよかったのだと思います」

このようにDMATの仕事は瞬時の「選択」の連続だ。そして、自らの身も護らねばならない。

「テレビドラマなどの影響で、DMAT隊員は瓦礫の下とか危険な災害現場に真っ先に飛び込んで、命がけで被災者を救うというイメージを持たれることもあるみたいです。でも実際の活動現場では、そういう危険な行為は絶対にしません。もしそれで隊員が怪我をしたら、現地の医療現場を圧迫してしまう。援助に来ておいて本末転倒になってしまうことは絶対に避けなければならない」

被災地の物資を消費しないのも鉄則だ。

食べ物や飲み物をはじめ、生活に必要なものはすべて自分たちで持ち込み、ゴミは持ち帰る。宿泊施設は被災者優先、余剰があればDMATに提供されるが、そうでなければ、テント泊になることもある。

「今回は病院内の雑魚寝状態で、最初は寝る部屋もないので廊下に椅子を並べて寝ていました。お手伝いに行かせてもらっている身であまり目立つところでは寝られないから、場所を選ぶのにはかなり気を遣います。2日目からは部屋の中で寝られる状態になったので、それだけでもだいぶ助かりました」

壊れかけている医療が倒れないように一時的に支えて、その病院が再び機能した時にはサッといなくなるような活動が、DMATの理想であると大河原は表現する。被災地で、DMATは目立ってはならない。黒子の存在である。

とりだいDMAT隊は予定通り1月13日まで7日間の活動を終えて無事に米子に戻った。

「被災地で本当に苦しい思いをしている人たちに、自分たちは果たしてどれほどのことができたのかという思いは常にあります。それでも任務を終えて引き上げるときに、現地の病院の人が涙を流しながら〝来てくれてありがとう〟とおっしゃってくれたことは忘れられません」