鳥大の人々
前垣義弘 鳥取大学医学部附属病院 脳神経小児科 教授
「この子らを世の光に」——
いかに〝特性〟のある人たちを 社会が受け入れるか

写真・中村 治


全国の国立大学で小児神経学の専門講座を持つのは岡山大学と鳥取大学の二つのみ。
前垣はそこで様々な「特性」を持つ子どもたちと向き合っている。薬など根本治癒の方法はない場合も多い。
それでも前垣は諦めず、寄り添う――
その源は大学時代の経験にあった。


鳥大の人々

前垣義弘が医師の道を考えたのは高校3年生の春のことだった。

この年、81年は国際連合が定めた『国際障害者年』だった。交通事故、病気、精神病、脳性麻痺、てんかんなどで〈各国の人口の少なくとも10人に1人は何らかの機能障害をもっている〉と国連は定義している。国際障害者年に合わせてテレビで『国境なき医師団』の活動を取りあげていた。彼ら、彼女たちのように人を助ける医師になってみたいと思ったのだ。

ただし、この時点で現実味は薄かった――。

前垣は1962年に兵庫県北部の香美町で生まれた。香美町の面積は368平方キロメートル。千葉県市原市とほぼ同じ。622平方キロメートルの東京23区の半分強の広さである。美しい海を下に望む余部橋梁で知られる日本海側、山深い地域が含まれる。前垣が育ったのは後者である。

「小さな牧場があって牛を10頭ぐらい飼っていました。夏は放し飼いでしたね」

人口は1970年に約28000人を頂点に緩やかに下っていた。前垣の時代は小中学校は学年2クラスだった。小学校低学年の頃、プロ野球選手に憧れた。しかし、学校には野球部がなかった。チーム結成に必要な人数が集まらなかったのだ。高校は地元の公立高校に進んでいた。

「塾や予備校も何もないところなんです。町のちっちゃな書店にある参考書を買って、自分で勉強していましたね」

神戸での1年間の浪人生活を経て、鳥取大学医学部医学科に入学した。医学部生は最初の2年間を教養課程として、鳥取市にある湖山キャンパスで過ごす。

「入学して何日か経った頃でした。サークル部室が集まっている辺りを歩いていたとき、『障がい児教育研究会』というサークルが目に留まったんです」

障がい児教育研究会は73年に設立、教育学部の学生を中心として「子ども会」という障害児たちとの交流活動を行なっていた。

「子ども一人に学生一人がついて、夏には泊まりがけで一緒に遊ぶんです。ぼくのときは湖山池の青島でキャンプをしました」

初めて担当した子どもは、知的障害、てんかん発作を持つ高校生だった。このとき前垣は初めて「てんかん」を知った。

てんかんとは突発的に脳の神経系が異常な活動によって引き起こされる。突然、体の一部が固くなる、手足がしびれたり耳鳴りがしたりする、動悸や吐き気を生じる、意識を失う、言葉が出にくくなるなどのさまざまな症状――発作が現れる。統計上は1000人に5人から8人の割合で発症するとされている

「その子は人見知りをせず、誰でも受け入れてくれました。当時、てんかんの薬も限られていて、十分に治療できない時代でした。寄り添うしかなかった」

障がい児教育研究会で前垣は、「社会福祉の父」と呼ばれた糸賀一雄を知った。

1914年に鳥取市で生まれた糸賀は、鳥取東高校から旧制松江高等学校(現・島根大学)、京都帝国大学文学部哲学科に進んだ。そして第二次世界大戦後、戦災孤児、知的障害児の教育のため滋賀県に近江学園やびわこ学園を創設し、園長を務めた。糸賀とは68年に54歳で亡くなっていたため、面識はない。それでも彼の「この子らを世の光に」という言葉は、前垣の胸に突き刺さった。これは障害を持っている人間は、哀れむべき、光を当てなければならない存在ではない。彼ら、彼女らは、存在そのものが光であるという意だ。

専門はおのずと脳神経小児科を選んだ。

脳神経小児科は、てんかん、発達障害、頭痛から先天奇形、染色体異常などの症状を小児に特化して扱う。全国の国立大学で小児神経学の専門講座を持つのは岡山大学と鳥取大学の二つだけである。 

前垣が脳神経小児科医としての道を歩き始めた頃、てんかんの治療が少しずつ変わり始めていた。

「子どもの病気の中でてんかんは患者数が多い。それにもかかわらず学問として研究、データをまとめるということをあまり行なっていなかった。自分なりに患者さんを診て、分からないことは他の医療機関の先生に診察データを送って相談しました。いわば独学で経験を深めていたような感じですね」

そんなある日、障がい児教育研究会で出会った彼が突然亡くなったことを知り、自分の無力さを思い知った。

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