「武に虎」2回目は、武中 篤病院長が師と慕う山中 望先生が登場。現在、故郷にいらっしゃる山中先生に会うために
愛媛県まで伺ってきました。瀬戸内海の穏やかな海を眺めながらの対談になりました。
師匠だけが知る「ヤング武中」時代の秘話から、日本とアメリカの手術現場、医療の未来まで話は尽きません。
武中 山中先生との出会いは1998年。私が神鋼記念病院(兵庫県神戸市の社会医療法人神鋼記念会)に配属されたときでした。神戸大学医学部大学院を修了してから2年ごとに三つの病院を回っていました。当時から山中先生のいる神鋼病院に行けば、最新の技術を学べるというのは神戸大学泌尿器科の人間はみんな知っていました。人気の病院だったんです。ところが私はなかなかそこに回されない。縁がないのかなと思っていたときに、神鋼病院へ行くことになった。嬉しかったですね。学びたくて、学びたくて仕方がない。乾ききったスポンジみたいな状態でした(笑い)。
山中 武中先生と初めて会ったとき、物事に動じないというか、泰然自若というか、落ち着いてる人だなと感じたことを覚えています。その印象は手術現場に入っても変わらなかった。手術というのは、時に思わぬことが起きてしまう。そうしたときでも慌てることがなかった。武中先生は神鋼病院にどれぐらいいたんでしたっけ? 4年? 5年?
武中 いや37歳からの2年間です。自分の中でももっといたような気がしますが、たった2年間だけ。濃密な時間だったから、もっと長くいたように感じるんでしょうね。
山中 当時の神鋼病院泌尿器科はぼくと武中先生と山田裕二先生(現・兵庫県立尼崎総合医療センター)の3人の医師がいました。ぼくは早く帰っていたけど、武中先生と山田先生はずっと病院にいたね。いつ家に帰っているんだろうというぐらい勉強していた。
武中 (頭を掻きながら)朝は普通に8時ぐらいですけれど、夜は日付が変わる前に帰ったことはなかったかもしれませんね。とにかく学ぶことが多かった。山中先生はまず自分で手術をしてみせてから、次にこれをやってみなさいと言われる。
山中 手取り足取り、細かく手技を教えるという感じではなかったね。武中先生だけでなく、うちに来る医者には平等に機会を与えて教えようとはしていました。
武中 言うのは簡単なんですが、実践するのは難しい。若手の医師はなかなか手術をする機会がもらえない。私は神鋼病院に行ったとき、(泌尿器科の手術を)一通り頭では分かっていた。しかし、頭で分かるのと手が動くのは別問題。見様見真似でそれなりの手術はできるけれど、本物とは違うことは分かっていました。
山中 診療科や専門、環境によって差異はありますが、医師が育つには一定の時間と努力が必要です。
武中 当時の手術を解説する〝手術書〟はイラストに説明がついているだけでした。人体というのは立体、なおかつ泌尿器科が扱う臓器は体の奥まったところにあって見えない。二次元のイラストで勉強するのには無理がありました。神鋼病院に行って驚いたのは、手術動画のライブラリーがあったことでした。
山中 94年に病院を新築移転したときに、当時の病院長に無理を言って、天井に備え付けのビデオカメラを設置してもらったんですね。
武中 今は、医療事故の防止、確認のため手術を録画するのは一般的。しかし、当時は、どこの病院もそんなシステムを採用していませんでした。
山中 医療安全もあるんですが、ビデオを残しておくと、外科系医師だけでなく麻酔科の医師、看護師さんも自分たちがどんな手術をしているのか共有することかできる。
武中 当時の泌尿器の手術は大量の出血を伴うものでした。もう血の海の中に手さぐりで突っ込んでいるみたいなもので、執刀する術者(の医者)以外、助手の医者でさえ、何をしているのか分からなかった。
山中 手術室の中に何台かモニターを置いて、術者が何をしているのか分かるようにもしました。モニターとビデオで看護師さんたちはぼくがやりたいことが分かる。だから、さっと手を出せば、何も言わずに必要な器具を渡してくれる。当然、手術時間が短くなる。
武中 患者さんの体への負担も少なくなりますよね。あのライブラリーは本当に助かりました。自分が手術する前に、同じような患者さんの例を参考にして頭の中で手術の流れを組み立てることができた。
山中 武中先生のラーニングカーブ(学習曲線)の上がり方はすごかった。ぼくのところにいた人の中でベスト3、いやトップかもしれない。
武中 ところで、手術室にビデオカメラを設置するなどの先進的な試みは、アメリカ研修の経験だと聞いています。アメリカのトップの病院、メイヨークリニックには83年に行かれています。これはどういうきっかけだったんですか?
山中 たまたま(神戸市の)三宮に飲みに行っていたら、小児外科の木村先生が帰省しておられたんです。当時、NYシュナイダー小児病院におられましたが、その後アイオワ大学医学部の外科教授に就任することが決まっていました。おめでとうございますと言ったあとに、ぼくも行きたいって頼んでみたんです。そうしたらアメリカの泌尿器科の有名な教授を紹介してくれて、そこからメイヨークリニックにつながった。
武中 その話、初めて聞きました(笑い)。山中先生が一歩踏み出したことで始まったんですね。
山中 だからものすごい特別待遇だったんです。
武中 今は情報技術の発達でリアルタイムに世界中の情報が入ってきます。しかし、あのときは日本とアメリカの医療事情はだいぶ違ったんじゃないですか。
山中 そう、着いたときはまさにカルチャーショックでした。あのときはメイヨークリニックでどんな手術をしているのかという知識もなかった。見るもの、見るもの、全部違っていた(笑い)。武中先生には釈迦に説法ですけれど、日本の泌尿器科はドイツの系譜で、『皮膚科・泌尿器科』から始まっています。泌尿器科が独立したのは、昭和40年前後。一方、アメリカは最初から泌尿器科は外科の一部。外科手術のトレーニングを積んだ人が泌尿器を扱っている。手術のやり方も全く違う。
武中 日本の泌尿器科の医師は歴史的に内科と外科を両方こなしてきました。外科手術の他、(内科的な)抗がん剤治療、感染症の対応までやる。私もアメリカにいた経験がありますから分かるんですが、向こうの泌尿器科医は基本、外科手術に特化している。そして専門の手術の数をこなして経験を積む。
山中 手術に立ち合って驚いたのは、術野(手術を行なっている、目で見える部分)が非常にドライだったこと。つまり手術中にほとんど出血がなかった。術者が解剖の知識をしっかりと持っているからです。
武中 私はいつも解剖とは、カーナビにおける地図のようなものだと説明しているんです。ナビが間違っているとどんなに運転技術、つまり術者にテクニック――手技があっても上手くいかない。なかなか分かってもらえないんですが、人間の構造って今でも細かいところまで分かっていない。中学、高校の理科、生物の教室に置いてある人体模型のイメージが残っているのかもしれません。しかし、末梢神経や筋肉、薄い膜がどこにあるのか、人体模型では全く分からない。山中先生はアメリカで手術を体験しながらそれを学んだわけですよね。
山中 とにかく手術の部屋がたくさんあって迷子になるぐらい。毎日、山ほど手術があるんです。2か月間、朝から晩までべったりと付いていました。
武中 そして帰国後、当時日本でまだ行なっていなかった膀胱再建術を広められた。
山中 (頷いて)従来は(疾患のある)膀胱を摘出したら、〝ストーマ〟といってお腹に人工的な出口を作るしかなかった。膀胱再建によって尿道から尿を出せるようにした。
武中 再建することで格段に患者のQOL(クオリティ・オブ・ライフ=生活の質)が上がる。当時の医療界には治療が第一で、QOLという発想さえありませんでした。
山中 泌尿器科手術はロボット支援手術の導入で大きな変革の時期を迎えます。武中先生は2006年にアメリカのコーネル大学の客員教授に招聘されたとき、ロボット支援手術を目の当たりにした。同時期、ぼくはロボット手術と同じような手術を人間の手でやろうとしていました。同じ手順を覚えておけば、いつでもロボット支援手術に移行できるだろうという考えでした。
武中 神鋼病院の副病院長のときにロボット支援手術のセンターを作ろうとされたと聞いています。
山中 2008年ぐらいだったかな。ほとんど実現しかけていたんだけれど、最後でダメになった。
武中 2007年に私は日本に帰国して神戸大学医学部にいました。神鋼病院にロボットのセンターができていたら、私はとりだい病院に行かなかったかもしれない。その後、山中先生は2009年に故郷である宇和島に戻られましたが、こうして師弟関係が続いていて時折お会いできるのが嬉しい。
山中 武中先生は歴史に残るような仕事をしていて、泌尿器科医のバイブルともいえる教科書に引用されている。私は武中先生の論文を自分の手術に生かしてきました。師弟関係というよりも切磋琢磨の仲に近い。武中先生と一緒にやっていたときも、自分の技術が完成しているなんて思ったことはなかった。もっともっと良くなるはずだ、研鑽の過程にあるという意識でしたね。
武中 研鑽という話になると「働き方改革」が関わってきます。私はとりだい病院の病院長として働き方改革、長時間労働削減をしなければならない。かつて自分がやっていたようなハードワークは推進できない。ただ、医師には、分担できない仕事もある。例えば自分が手術をします。翌日、自分で患者さんの顔を見に行かねばならないこともある。これが超過勤務として働き方改革に反することもある。
山中 その通り。カルテやデータ(数値)では分からない部分がある。手術が上手くいったかどうかは、患者さんの顔つきをみたら、ある程度分かる。第一歩は表情を観察すること。
武中 データが良かったとしても、異変、つまり合併症の兆しが先に顔に出ることもあります。もちろん顔よりも先にデータで出ることもある。両方が必要。
山中 ぼくたちの時代は働き方改革という考えはなかったからね。武中先生みたいに一生懸命勉強したいっていう人は、そんなん関係なくやるんじゃないですか(笑い)。
武中 私がいつも考えているのは、その時点で最高、最良のことが10年後、20年後、がそうとは限らないこと。山中先生が導入された手術室の撮影システムと同様に、その当時の常識に囚われていると先に進めない。今後、DX(デジタルトランスフォーメーション)が医療にもっと入ってくるでしょう。医療の現場は変わっていかねばならない。
山中 なるほど、AI(人工知能)が手術翌日の患者さんの顔を認識、危ないときは教えてくれるかもしれない。
武中 そうなんです。医師が時間をかけてきちんと患者と向き合うということに私自身はこだわりがある。あるんですけれど、時代が変わっていく中でそれを押しつけてはいけない。現在、とりだい病院が計画している新病院ではその辺りを実現したいんです。
山中 武中先生にまた学ばせてもらいました(笑い)。
武中 (手を振って)いえいえ、今後もよろしくお願いします!
山中 望 山中医院泌尿器科専門クリニック 院長
愛媛県宇和島市出身。神戸大学医学部卒業。兵庫県立尼崎病院、神鋼記念病院(※)に勤務。1986年米国メイヨークリニックで手術研修。1999年神戸大学医学部臨床教授、2000年神鋼病院副病院長に就任。2009年7月より宇和島市にある実家の山中医院を継承。今までの経験を生かし、患者さん本位でエビデンスに基づいた質の高い医療の提供に努めている。
※2015年より社会医療法人神鋼記念会 神鋼記念病院となる
武中 篤 鳥取大学医学部附属病院長
1961年兵庫県出身。山口大学医学部卒業。神戸大学院研究科(外科系、泌尿器科学専攻)修了。医学博士。神戸大学医学部附属病院、川崎医科大学医学部、米国コーネル大学医学部客員教授などを経て、2010年鳥取大学医学部腎泌尿器科学分野教授に就任。2013年~2017年に低侵襲外科センター長、2017年副病院長を併任。2023年4月より鳥取大学医学部附属病院長に就任。「人から求められる医療人になる」ことを目標に、とりだい病院が〝地域と歩む高度医療の実践〟の場となれるよう邁進している。