鳥大の人々
中村 貴史 鳥取大学医学部医学科 ゲノム医療学分野 教授
父の仇「がん」を討つため——
創薬に没頭する「ハードワーカー」

写真・中村 治


北海道の寒村で育った中村は子どもの頃から喘息に悩まされていた。
中村を1時間以上、車に乗せて病院まで連れていってくれたのは父親だった。高校生のとき、その父親をがんで失った。
その仇をとるため、中村は遺伝子研究に進んだ。遺伝子治療は道なき道だった。
最先端を求めて、鳥取から東京、そしてアメリカのメイヨークリニックに渡った。
現在は母校である鳥取大学に戻り、創薬に取り組んでいる。


鳥大の人々

あまり成績も良くなくて、おっとりしすぎて学校の先生から大丈夫かと心配されるような子どもでしたと中村貴史は大きな体を揺らせて笑う。

中村は、北海道の内陸部である深川市で生まれ、北端の稚内市から南に下った寒村で育った。

「人よりも牛が多いんじゃないかっていうところです。夏は観光でそれなりに人が来ますが、冬になると寒くて外には出られません」

子どもの頃、中村は病弱で喘息に悩まされていた。町に対応できる医療機関がなく、発作が出るたびに父親が車に乗せて稚内市、留萌市の病院に連れて行ってくれた。稚内までは1時間、留萌までは2時間の道のりだった。自動車修理工場の他、葬儀社を営んでいた父親は仰ぎ見る存在だった。私と正反対でPTA会長とかまとめ役に自然となるリーダーと中村は評する。

高校は約190キロ離れた旭川西高校に進んだ。

「すでに高齢化、過疎は進んでいましたし、地元に残っても職はない。将来を考えると出たほうがいいと判断しました」

ただ、このときは具体的に将来の道は考えたことはなかった。彼の人生を大きく変えたのは高校2年生のときだった。父が、血液のがん――白血病に罹っていることが判明したのだ。現在は薬物治療でコントロールしながら長期生存できるケースが増えているが、当時は不治の病だった。

「父親は丈夫な人で風邪一つひかなかった。両親はぼくに病気のことを隠していて、最後の最後、亡くなる1か月前に知りました」

いよいよ危ないと連絡を受けて札幌の病院に駆けつけると、父はすでに息を引き取っていた。自動車修理工場は閉鎖、葬儀社は母親が引き継いだ。父はこう言い残していた。子どもたちには好きなことをやらせるように、と。

「それまでは車が好きだったので(父と同じ)整備士が頭にありました。父親ががんで急に亡くなったことで、特効薬を作ってがんという仇を討ってやろうと思ったんです」

中村の高校時代は、遺伝子治療が人口に膾炙する時期と重なっていた。そこで鳥取大学医学部の生命科学科を進路として選んだ。生命科学とは生物、科学、物理学の基礎的な学問と医学、工学などの実学から生命現象を総合的に研究する学問である。鳥取大学医学部生命科学科は全国に先駆けて1990年に設置されていた。中村は4期生にあたる。

「元々研究に興味がありました。自分の性格を考えたときに患者さんを診るのは得意じゃない。興味があることを寝ても覚めても考えるという感じなんです。何か新しいものを作りたいというのもありました」

鳥取は寒さも田舎度も北海道と変わらなかったのですんなり馴染めましたと中村はいう。

「入学前、(鳥大は)これから遺伝子治療を推していくという話だったんです。しかし、入ってみたら専門の先生がいなかった。今でこそ、がんは遺伝性疾患等に対する遺伝子治療薬が相次いで承認され、現実のものとなっていますが、当時は実際の患者さんで上手くいった例が少なかった。大学院に進んで必要な論文を書き上げてから、どうしても遺伝子治療をやりたいと当時の先生に相談したら、(鳥取大学大学院に)籍を置きながら、別のところに行けばいいとおっしゃったんです。普通はありえない。ぼくは人に恵まれているのかなと思います」

それぐらいがんの遺伝子の研究をしたいというオーラが出ていたのかもしれませんと笑った。

 

中村が門を叩いたのが公益財団法人がん研究会―通称・がん研だった。がん研は1908年に設立された日本初のがん専門の研究機関である。このとき豊島区上池袋にある癌研究会附属病院を拠点としていた。

「全国から優秀な人、がんの研究をやりたいという人が集まっていました。研究費もふんだんにありましたし、鳥取にはない刺激がありましたね。朝10時ぐらいから夜中の3時、4時まで実験して論文を書くという生活。ボス(上司)からやれと言われたのではなくてやりたいことがたくさんありすぎたんです」 



名門メイヨークリニックの
「ポスドク」へ

ところが、しばらくするとがん研にも飽き足らなくなった。がん研は日本で最先端の研究機関である。英文の論文を精読するうちに、アメリカはもっと先を行っていることに気がついたのだ。

「私はこういう実験をしていてこういうテク(ニック=技術)もある。論文も書いている。あなたの研究室で働きたいという手紙を3か所に出しました。そうしたら全部からインタビュー(面接)をするから来なさいと」

アメリカの面接は日本とは全く勝手が違っていた。

「日本では候補者の学生をトップの教授が一対一で審査する。一方、アメリカは教授の他、ラボ(研究室)のチーム全員と話をさせるんです。チームには基礎(医学)の研究者、臨床の先生、創薬の人間と色んな専門家がいる。彼らが応募者をチームに入れても大丈夫かという最終判断をするんです」

中村は面接を受けたすべての研究室から来てほしいという連絡をもらった。その中からメイヨークリニックを選んだのは、先方の熱意を感じたからだ。

「ぼくはあまり英語が得意ではなかったんです。論文は英語で書きますけれど、会話はまた別。そうしたら我々はこんなことをしているとホワイトボードに絵を描いて説明してくれた。本当に来てほしいんだなという気持ちが伝わってきました」

メイヨークリニックは、ミネソタ州ロチェスター市を本拠地とする世界屈指の医療機関である。研究室を率いていたのはイギリス人のステファン・J・ラッセル。中村はこの研究室の「博士研究員」となった。博士研究員とは〝ポスドク〟――大学院後期課程修了者の任期付き研究職である。

「言葉は悪いですけれど、日本ではポスドクは何の保証もない高学歴フリーターみたいな扱い。一方、アメリカの博士研究員は研究者の登竜門として地位が確立されている。しっかりした業績と研究者としての資質を見せれば独立した研究者になれる」

業績とは論文である。論文には〝格付け〟がある。数多あるどの学術雑誌――ジャーナルに掲載されるか。論文には複数の研究者が関わる。何番目の執筆者なのか。

「ラボには長年蓄積されたノウハウがありました。そこに私の無尽蔵なマンパワー、ハードワークがマッチして、日本で言う〝トップジャーナル〟にファースト(一番目の)執筆者として次々と論文を出しました。業績を上げれば上げるほど給料も高くなっていく」

渡米2年後の2004年、中村はリサーチアソシエイトに昇格している。

当時、ロチェスター市の人口は約8万人。病院しかない街でしたと振り返る。冬になるとマイナス30度にまで下がり、外出もままならない。これまで以上に研究に没頭できる環境でもあった。このロチェスター市で第一子に恵まれた。

「自分の中ではメイヨーで(仕事の)ペースを落としたつもりでした。それでもアメリカ人に言わせると、お前は子どもが生まれたのになぜ研究室にいるんだ、クレイジーだと。みんなから帰れと言われて、強制的に1週間休まされたこともありました」

アメリカは徹底した実力主義でもあった。実績が出せない人間は短期間で研究室から去る。中村はこのままアメリカに居つづけることも考えたが2006年に日本へ戻った。

帰国後は独立行政法人科学振興機構に所属しながら、東京大学医科学研究所で研究を続けた。そして2009年、医科学研究所の特任准教授に就任。職務はウイルスベクター製造の「工場長」だったという。

ウイルスベクターは遺伝子の「運び屋」とも称される。人体に影響のないように弱毒化したウイルスを作り、そこに治療用の遺伝子を乗せて体内に運ぶ。

「細胞をディッシュ(容器)で培養します。ウイルスは自己複製して増えていきます。複製したウイルスから不純物を取り除く」

職務以外の時間は自らの研究に没頭し、論文を執筆した。論文を認められれば国からの助成金を受け取ることができる、それを次の研究費に充てる。そのうち、中村は他の研究者が考案したウイルスベクターを作るだけでは面白くないと思うようになった。そんなとき鳥取大学医学部生命科学科准教授の募集を目にした。



投資家との打合せ場所は
「プライベートジェット」

「母校ですし、自由にできるんじゃないかって思ったんです」

しかし、である――。

メイヨークリニックは世界の最高峰、東京大学医科学研究所も日本の最先端である。山陰の地方大学へ移ることに怖さはなかったのか。そう問うと中村は、鋭いところをつきますねと苦笑いした。

「東大というネームバリューがなくなるわけですから無謀だ、助成金が取れなくなると言う人もいました。正直なところぼくはあまり深く考えていませんでした」

2012年、鳥取大学大学院医学系の准教授として、8トントラックに研究用の機材を詰め込んで米子に戻った。その機材を見て、鳥取大学の人間は目を丸くしたという。ここまで大量の機材を持ち込んだ人間はいなかったのだ。中村は医学部医学科准教授を経て、2023年から教授となった。

今のところ鳥取だからと困ったことはないですね、と中村はうそぶく。

現在、彼が注力しているのは、がんの「ウイルス療法」の創薬である。まずウイルスベクターによりがん細胞を溶解させる。その際、壊れたがん細胞から「抗原」が放出される。この抗原を患者の免疫細胞が認識し、残ったがん細胞を排除するという仕組みである。

創薬では動物実験、そして人間への臨床試験をくぐり抜けて製品化にたどり着く。その期間は10年から20年、確率は3万分の1と言われる。2015年、中村は「腫瘍溶解性ウイルス」をアステラス製薬と共同研究、2018年に独占的ライセンス契約を結び、翌2019年に臨床試験を開始した。異例の速さで臨床試験まで漕ぎつけることができたのは、早い段階で製薬会社を巻きこんだからだ。

中村の頭にあるのはメイヨークリニックでの経験だ。 

あるとき、教授のラッセルから投資家との交渉に同席しろと言われたことがあった。待ち合わせ場所に指定されたのは、ロチェスターの飛行場だった。普段は使用しない駐機場に2台のプライベートジェットが停まっていた。扉を開けると、男が我々の会議室にようこそと迎えた。機内とは思えない豪華な内装だった。

「投資家だから専門的な話はできないと思ったら、そうじゃなかった。研究者あがりのベンチャーマインドを持った人で、次々と質問してくる。お前らのチームにいくら出せば何ができるのか、3分で説明しろ、みたいな感じです。ぼくたちは研究者であると同時に投資家を説得するビジネスマンにもならなきゃいけないんだと思いました。カルチャーショックでしたね」

アメリカに行ったばかりの頃、たびたび「ナカムラはシャイすぎる」と言われた。日本にいる時は、我が強すぎると言われ続けてきたのに、と苦笑いした。ラッセルが「我々は小さな製薬会社なのだ」と言ったことがある。製品化を念頭に研究、臨床試験を行い、量産は製薬会社に任せる、という意味だ。チームには研究から創薬まで迅速につなげるスタッフが揃っていた。自分のやりたいことを実現するには、個として強くなること、有能なメンバーとチームを組むことである。

鳥取大学では中村を支える体制が固まりつつある。製薬会社、とりだい病院の臨床現場との連携――父の仇であったがんと戦うため、中村は今日も米子で〝ハードワーク〟している。

鳥大の人々



文・田崎健太
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)『電通とFIFA』『真説・長州力』『真説佐山サトル』『スポーツアイデンティティ』(太田出版)など。小学校3年生から3年間鳥取市に在住。2019年、『カニジル』編集長に就任。2021年、(株)カニジルを立ち上げ、9月からとりだい病院1階で『カニジルブックストア』を運営中(10月リニューアルオープン)。

中村貴史(なかむら たかふみ)
1973年北海道生まれ。北海道立旭川西高等学校卒。97年鳥取大学医学部生命科学科卒後、同大学院医学研究科博士課程生命科学専攻修了。のち米国メイヨークリニック博士研究員などを経て2009年東京大学医科学研究所特任准教授。12年鳥取大学大学院医学系研究科准教授。23年より医学部医学科ゲノム再生医学講座ゲノム医療学分野教授。