病院長が時代のキーパーソンに突撃!
対談連載「たすくのタスク」
株式会社ミキハウス 代表取締役社長 木村皓一

写真・中村 治


たすくのタスク

産科婦人科医でもある原田省とりだい病院長は、お産を迎えるお母さんたちを見守ってきました。
そんな病院長のところに、ミキハウスから素敵な『プレゼントボックス』の提案が。
質にこだわり、オンリーワンのブランドづくりを目指していく想いを、
ユーモアを交えながら語り合いました。

世界の富裕層から教えて
もらったミキハウスの価値

原田 今回の対談はミキハウスの『プレゼントボックス』をとりだい病院で提供して頂いたお礼から始めさせてください。(プレゼントボックスを持ちながら)この透明のカバーの素材と(画家の)朝倉(弘平)さんの絵が合っている。とりだい病院の広報誌『トリシル』の表紙に使った絵を使用していただきました。すごくいいですよね。

木村 他の病院でもプレゼントボックスをやっているんですが、とりだい病院ならではのデザインで可愛いね(笑い)。

原田 2022年9月12日から、とりだい病院で出産したお母さんすべてに、プレゼントボックスをお渡ししています。最初は2021年の夏ぐらいに、慶應義塾大学医学部名誉教授の吉村泰典先生から慶應義塾大学医学部附属病院が、赤ちゃんが生まれたご家族のために、病院とミキハウスで相談をしながら内容を決めた新生児用品が入ったプレゼントボックスを渡しているという話を聞きました。

木村 吉村先生と原田病院長は同じ産科婦人科ですね。

原田 吉村先生は尊敬する先輩で、とりだい病院の運営諮問委員にもなってもらっています。慶應義塾大学の話を聞いて、オリジナルのプレゼントボックスはうちでもできますかって相談したところ吉村先生から木村社長を紹介していただいた。楽しい社長さんだから会っておいた方がいいとも(笑い)。日本では少子化が進んでいます。少しでもご家族の助けになりたい、というお考えから始められたんでしょうか?

木村 それもありますが、日本の繊維業界は技術が高くて、ものすごく質の高いものを作る力がある。ところがその良いものを安く売ってしまう傾向がある。

原田 子ども服に限らず、日本はずっとデフレが続いてきましたね。他の先進国と比べると給料も安いけれど、物価も低い。

木村 (頷いて)良いものを作っても売価が上がらない。当然、働いている技術者の給料も上がらない。凄い技術を持っていて、いい商品を作れるのに辞めていく。そういう環境だと良いものを継続的に作っていくことはできない。ぼくたちは良い物を作って、お客さまに喜んでいただきたい。同時に職人さん、技術者にもその対価をきちんと支払いたい。そのために、職人さんの素晴らしい技術に見合った適正な価格を付ける必要があります。

原田 恥ずかしながら、ぼくはミキハウスの商品の品質が良くて、価格が高いことを知りませんでした。振り返ってみれば、うちの息子が小さい頃、ミキハウスのブレザーを着ていたなという記憶があります。

木村 ミキハウスの商品は高いかもしれませんが、質がいいので長持ちする。プレゼントボックスでその品質の良さを実感してもらいたいと考えたんです。

ミキハウスはロンドンの(老舗高級百貨店)ハロッズに10年ほど前に出店しています。アルマーニとバーバリーの間にミキハウスがあったんです。私が視察に行ったとき、値札を見たら、ずいぶん高い。日本円に換算すると日本の3倍くらいの値がついている。「これ、値付け間違えている」って指摘すると、店長からは「順調に売れています」という答えが返ってきたんです。世界の富裕層から見れば、それくらいの価値のある商品だということを逆に教わりました。ようやく日本国内でも同程度の価格設定をできるようになってきたところです。

原田 山陰のものづくりの現場でも同じようなことが起きていると聞きます。職人たちが食べていけないので、後継者が育たない。いい手仕事の作品、商品は正当な値段で売らなければならない。



今はどこに会社が
あっても一緒ですよ

原田 木村社長は創業当時から、品質にこだわっておられたと聞きます。

木村 最初は一人で試行錯誤しながらやっていましたね。自分のところの商品がどれだけ耐久性があるのか確かめるために洗濯機を回し続けたこともあります。ぼく、洗濯好きなんです(笑い)。洗濯機、何個潰したか分からんぐらい。だからこそ自信を持っています。

原田 洗濯機からヒット作も生まれたとか。

木村 あるときデニム生地を使い始めたんです。ところが、デニム生地は色落ちすることを当時のお客さんはみんな知らなかったんです。洗濯したときに白い洋服が染まってしまったと、クレームが来ました。デニムが色落ちするのは当たり前なんですれど、やっぱりそれを使ったこっちが悪いんです。それで洗濯して色落ちさせてから出荷することもしました。デニムって洗濯すると縮む。縮む分は計算しているんですが、少し皺になる。新品なのにこれでいいんだろうかと、恐る恐る店に出してみたら「この皺がええ」って喜んでくれたんです。それで石ころ入れて洗濯機を回して独特の模様を出すこともやりました。

原田 ストーンウォッシュですね。

木村 ストーンウォッシュ加工には本当は軽石を使うんです。ぼくは普通の石ころを入れたから、洗濯機がすぐに駄目になった(笑い)。

原田 話は変わりますが、地方の大学の病院長としては、ミキハウスが八尾市という、大阪の中心部から離れた場所に本社を置いていることに興味があります。ある程度規模が大きくなると、本社を東京に移すという企業も少なくないですよね。

木村 (大きく手を振って)もう今はどこに会社があっても一緒ですよ。

原田 確かに今となってはリモートワークが一般的になりましたが、ミキハウスは一貫してこの場所から動いていない。

木村 本社の位置より、どうしたらいい商品を安定供給できるかの方を気にしていました。ただ、設計にはこだわりました。この本社ビルを建てたのは今から約30年前、創業15年ぐらいした頃でした。誰に設計を頼もうかと調べていたら、やはり(建築家の)黒川紀章さんだと。それで会いに行ったんですが、(首をひねる仕草で)八尾に本社? あかんあかん、はよ、帰りって感じで門前払い(笑い)。

原田 まだミキハウスの知名度がなかったんでしょうか。

木村 3回目にJAL(日本航空)とANA(全日本空輸)、そして新幹線グリーン車の機内誌を持って行ったんです。ここに広告を出している会社です、図面引いてもらえませんかって。そうしたら分かったって、設計してくれました(笑い)。

原田 木村社長の中にこうあるべきという理想がはっきりあって、ぶれずに一直線に行く。そして八尾から世界中に展開しておられる。とりだい病院では新病院構想が始まっています。ローカルとグローバルの両立という観点でも木村社長のやり方は参考になるかもしれません。

木村 ぼくたちアパレルの世界で、日本国内だけのビジネスを考えたらもう大不調です。ミキハウスグループの売上のうち、だいたい6割が国外です。現時点で国内直営店が約120店舗。国外では、パリ、ロンドン、モスクワ、キーウ、シンガポール、ホーチミン、ジャカルタ、北京、上海、ソウル、メルボルンなど世界各都市に90店舗を展開しています。2022年末に、シンガポールのマリーナベイ・サンズの中にある高級ショッピングモールに直営店を開きました。

原田 マリーナベイ・サンズは屋上にプールがあることで有名なラグジュアリーホテルですね。世界で最も勢いのあるアジアの富裕層から、高級ブランドとして認められたということになります。先ほど、日本と海外の売値が違うという話をされましたが、現在もそうなのですか?

木村 海外では、輸出などの経費がかかるので上乗せして価格をつけています。

原田 今はインターネットの時代ですから、日本で買い付けて送るなどの裏技も横行するのではないですか?

木村 それがあまりないんですよ。ネットの世界では偽物も出回っているじゃないですか。ミキハウスの顧客は値段の安さよりも、本物を手に入れる方が大切だと考えているのかもしれません。



お客さんが納得できるものしか
作らない、売らない

原田 ミキハウスといえば、柔道や空手、卓球、アーチェリー、テニス、水泳などのアスリートを支援していることでも知られています。東京五輪には11人もの所属選手が出場、空手女子の清水希容さん、レスリング男子の文田健一郎さんが銀メダルを獲得しました。こうしたアスリートたちはどんな観点で選んでおられるんですか? 

木村 いろいろなご縁もありますね。世界で活躍できる実力もあって、競技を続けていきたい気持ちもある。でもなかなかスポンサーもつかず環境や金銭面など一人ひとりさまざまな要因で競技を続けることが難しい。東京五輪に出場したカヌーの羽根田卓也選手の場合は、彼から手紙が来たんです。それまでお父様がサポートしてくださっていたけど、ロンドン五輪までが限界だと。いろんなつながりのあるところに話を持ち込んだけど、断られたっていうんです。

原田 カヌーはマイナースポーツなので露出が少ない。宣伝という観点で見るとあまり魅力的ではないかもしれません。

木村 (大きく手を振って)うちは宣伝とか考えていません。調べてみたらロンドン五輪で7位入賞しているんです。そんな選手でも支援を必要としている状況でした。彼の話を聞くと、将来のビジョンやプロセスが明確で、高校を卒業してから単身スロバキアに渡るほどカヌーに懸けていたんです。その競技に対する強い想いを応援することにしました。そうしたら、リオデジャネイロ五輪で日本人初の銅メダルを獲った。その後は、以前断ってきた企業がスポンサーすると言い出したそうです。でも彼はそっちに行かなかった。

原田 雨の日の友だちを大切にした(笑い)。プレゼントボックス提供も同じですが、社長の気持ち、強い想いを感じます。

原田 今日、案内してもらって感じたのは、社内の雰囲気が明るいことでした。その想いが社員に伝わっている気がします。さまざまな国で店舗を展開していることを含めて、活力ある組織を作るために心がけておられることはありますか?

木村 基本は会社の方向性を語りながら、できるだけ任せていく。海外展開では、いろんな国の人を採用し、日本で一緒に働きながらミキハウスの想いや方向性など学んでもらって、世界の各店を担当していただいています。

原田 ミキハウスグループの社員のうち、外国人の比率はどれぐらいですか?

木村 600人のうち、外国籍の方が100人超えているんじゃないですか。海外事業部は日本人はほとんどいません。

原田 外国籍のスタッフを増やしていくきっかけは何かありましたか?

木村 2010年の上海万博(上海国際博覧会)の頃でしょうね。ミキハウスとして上海万博に出展したとき、中国のスタッフを雇いました。そこから始まりましたね。

原田 同じアジア人でも、育った環境が違えば少し考え方が違う面がある。そこに苦労はされませんでしたか?

木村 逆ですね。

原田 えっ、どういうことですか?

木村 今の日本人の言葉がぼくには分からないんです。直球を投げてこないから。分かってよ、というのが腹の中にあるんでしょう。でもこちらの意図も分かってもらえないし、相手の考えも分からない。これが外国籍の人だと、直球を投げてくる。例えば、中国出身の新入社員が「なんで私はあの人より給料安いんですか」って聞いてくる。中国の人たちって、給料を見せ合っているんですよ。だから他の人がどれだけもらっているか知っている。あるいは「あの人、課長ですよね、私が部長になるにはどうしたらいいですか」って私に言ってくる女性もいました。

原田 控えめな山陰人では考えられない(笑い)。そこまで言ってくるというのは優秀な方なんでしょうね?

木村 優秀も優秀、実力あるんですよ。今までに中国で新店を40店舗ぐらい立ち上げたんじゃないかな。

原田 国際化といえば、我々のような病院でも新型コロナによって国外との交流が途絶えてしまった。これをいかに回復するか、です。

木村 これからの日本はいろんな国の人を受け入れていかないと、ほんとうにしんどくなります。

原田 将来的には海外に生産拠点を移すという考えはありますか?

木村 それは無理でしょう。なかなか日本と同じ品質で作るのは難しい。しかし、日本国内から職人がいなくなっているということもあり、クオリティが日本と同様に高く作れる場合は、今も一部海外で生産しています。品質は絶対に妥協できないので、あくまでも我々の品質基準がクリアできる範囲内に限ります。私たちのお客さんが納得できるものしか作らない、売らない。売れるからなんでもかんでもやるというのではないです。

原田 オンリーワンのこだわりですね。我々とりだい病院もオンリーワン、ブランド力を高めていかなければならないとつくづく思いました。今日はありがとうございました。

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たすくのタスク

木村皓一 株式会社ミキハウス 代表取締役社長
1945年滋賀県生まれ。 1970年に父の経営する大阪の婦人服メーカーに入社し、アパレル事業の実務を学ぶ。1971年に大阪府八尾市でベビー・子供服製造卸「三起産業」として創業。世界に通用する高級ベビー・子供服ブランドを作り上げ、国内だけでなくパリの路面店や中国、シンガポールなど世界のハイエンド子供服市場におけるブランドの位置づけをゆるぎないものとしつつある。また子どもに関わる環境すべてを対象に、子育て支援事業や教育事業など様々な事業を展開している。さらに柔道・卓球・水泳・アーチェリー・空手など多岐にわたる競技でスポーツ選手を長年にわたり支援し日本スポーツ界の振興に貢献しており、地域の子どもたちのための柔道教室の運営やジュニアの卓球選手の育成など、幅広いスポーツ支援を行なっている。

原田 省 鳥取大学医学部附属病院長
1958年兵庫県出身。鳥取大学医学部卒業、同学部産科婦人科学教室入局。英国リーズ大学、大阪大学医学部第三内科留学。2008年産科婦人科教授。2012年副病院長。2017年鳥取大学副学長および医学部附属病院長に就任。患者さんとともにつくるトップブランド病院を目指し、未来につながる医学の発展と医療人の育成に努めながら、患者さん、職員、そして地域に愛される病院づくりに積極的に取り組んでいる。好きな言葉は「置かれた場所で咲きなさい」。