鳥大の人々
脳神経外科 准教授 坂本 誠
できなかった親孝行を
病気で困っているこの地の方々に返したい

写真・中村 治


カテーテルを使用した脳血管内治療のエキスパートとして日々大勢の診療を行なっている坂本は、
小学校から中学校の間、不登校となり家にひきこもっていたという。
そこから医師を目指し現在に至るまでの道を振り返ると、
いつも見守ってくれた父親の存在があった。


鳥大の人々

坂本誠の人生最初の躓きは、小学校3年生のときだった。

通っていた小学校では給食を誰が早く食べるかを競うことが流行っていた。負けたくないと考えた坂本が食べたふりをして捨てていたのを担任だった女性教師にみつかってしまったのだ。こっぴどく叱られ、翌日から学校に行かなくなった。登校拒否である。

自分の中で壁を作っていたんでしょうね、と坂本は首を振る。

「一日休むと次の日に行きにくくなる。病気じゃないのになんで休んでいるんだろうと友だちたちも考えているだろうって思うようになったんです。人の目がすごく気になって行けなくなったんでしょうね」

坂本は1972年に兵庫県北部の美方郡美方町(現・香美町)で生まれた。山の谷間にへばりついたような小さな町で、冬になると大雪が降った。屋根の傾斜を使って橇で遊んだこともある。豊かな自然に恵まれた場所だったが、住民みんなが顔見知りという状況に息苦しさも感じていた。

幸いだったのは、彼の父親が学校に行かないことをなじったり、叱ることはなかったことだ。せめて友だちとの関係をつないでおきたいと考えたのだろう、坂本を連れて毎朝校門まで行き、挨拶をさせた後、家に連れて帰った。

「教科書ガイドみたいな答えが書いてある参考書を使って一人で勉強していました。父親が知り合いだという教育実習生の方を連れてきたこともありました。でも一緒にドライブに行ったぐらいで、勉強を教わった記憶はないです」

小学校は一学年一クラス、担任は持ち上がることになる。結局、卒業まで小学校に行くことはなかった。

中学校進学を機に学校に通い始めたが、半年しか続かなかった。

「その中学は必ず部活に入らなくてはならなかったんです。バレー部とバスケット部しかなくて、バレー部を選びました。そうしたらすごい怖い先輩がいて、なんか萎縮しちゃって、また学校に行けなくなってしまった」

中学校も小学校と同じ一クラス。顔ぶれも変わらなかったことも一因だった。再び、自宅で学校と同じ時間割で自習する日々だった。

「学校と同じ時間割で、勉強するんです」

10代は悲観的になりやすい時期だ。自分の人生は終わったと暗い気持ちになることもあった。今度こそなんとかしなければならない、高校進学が最後のチャンスかもしれない。そう考えた坂本は同級生がほとんど進学しない養父市の八鹿高校を選んだ。香美町から距離的には遠くないが、交通の便が悪い。過去、入学した生徒は高校の近くに下宿していた。自分は一人暮らしに向かないと坂本はバスに1時間乗って通うことを選んだ。

この人生の〝リセット〟に坂本は成功した。高校では生物部に入り、親しい友人もできた。ようやくまともな学生生活が送れるようになったと安堵していた1年生の夏のことだった。

「期末試験を受けていたら、熱っぽくて調子が悪かったんです。そのまま試験を受けたんですが、お腹が痛くてどうしようもなかった」

病院に行ってみると虫垂炎をこじらせており腹膜炎となっていた。すぐに手術を受け、3週間入院することになった。

「同級生が宿題を持って来てくれたんで、病室でやっていたんです。そうしたら病院長が回診でやってきて、パラパラっとぼくの持っているのを見て、医者になるかって言ったんです」

手術後、初めて口にした白湯の美味しさに感動した。その後、自分の身体がみるみる回復、医療の力を実感していた。医師も悪くないと思ったのだ。

生物部の友人たちとゲーム感覚で勉強したこともあり、隣県の鳥取大学医学部に現役で合格した。



カテーテル治療の「師」との出会い

坂本の専門は脳神経外科である。脳神経外科は、脳外科とも呼ばれ、脳、脊髄、神経を専門に診断、治療する。脳卒中などの脳血管障害、頭部外傷、脳腫瘍などが該当する。

坂本が脳血管内手術と出合ったのは鳥取大学大学院生のときだ。これはカテーテル―0.5㎜から3㎜の管を患者の足の付け根や腕から血管に挿入、大動脈を経由して頚部や脳の血管に誘導し、薬剤や器具を使用して行う治療である。

「脳神経外科でカテーテルを使った治療をやっているということも知りませんでした。ごく一部の医師が始めたばかりでした」

その後、とりだい病院の担当教授から薦められ、このカテーテル治療を東京の虎の門病院で研修することになった。ここで人生の師と出会うことになった。根本繁である。

根本は東京大学医学部卒業後、東京大学、自治医科大学などを経て、ドイツ、カナダに留学し、脳血管内手術の研鑽を積んだ。2002年に虎の門病院で「脳血管内治療科」を立ち上げていた。脳のカテーテル治療を掲げた専門科は日本初だった。

「立ち上げから2ヶ月は旭川から勉強にきていた先生がおられた。一日だけその先生から引き継ぎを、あとはぼくと根本先生の2人ですね」

カテーテル使用により脳内での出血、脳梗塞などの合併症が起きる可能性がある。根本の施術では、それがほとんどないことに舌を巻いた。

東京では虎の門病院から徒歩圏内、新橋のワンルームマンションを借りた。便利な場所ではあったが、築40年以上の古い建物だった。物見遊山の気分で銀座や渋谷などテレビで観たことのある場所に行ってみた。しかしそれもすぐに飽きた。

「一人で回っても楽しくないことに気がついたんです。それからは仕事場とマンションの往復の毎日でした」

と笑う。坂本は根本と一緒に関東一円、東海地方の医療機関を回ることもあった。

「脳血管内治療をやる先生がそんなにいなかったので、いろんなところから根本先生が呼ばれるんです。だいたいぼくが付いていって2人で手術をする。根本先生と一緒に様々な症例の経験を積んだことは非常に大きかった」

さらに根本は脳神経血管学会の専門医試験のために東京大学医学部の勉強会を紹介してくれた。

「東大だけでなく、いろんな大学から勉強に来ていました。東大(医学部)のOBの先生たちが講義に来て資料をくれるんです。その資料の出来が良くて、すごく勉強になりました」

この勉強会でさまざまな医師と知己を結んだことは坂本の大きな財産となった。そして当初の予定通り、専門医試験を受験するため、東京生活は1年で切り上げることにした。

「今から考えれば、虎の門での生活は良かったので、もう少しいても良かったのかなと思います」

松江市立病院を経て、2005年にとりだい病院に戻った。根本と離れてみると、自分の至らない部分が目に付いた。

「自分一人でできるという自信があったんです。確かに手は動かせるんです。でも治療はそれ以外の部分も必要。どのように手術を進めるかという戦略、知識、経験。根本先生がカバーしていてくれたんだと気がつきました」

坂本は他の医師の手法を学ぶため、日本全国の評判の高い病院の視察に出かけている。こういうやり方があるのかと改めて目を開かされたこともあった。医師という職業にやり甲斐を感じたのはその頃だ。脳血管内治療は自分の天職ではないかと思うようになった。

しかし、好事魔多し。姉から父の具合が悪いことを知らされた。



父親への後悔が変えた、
医師としての在り方

鳥取大学医学部進学以降、坂本は実家から足が遠のいていた。子どもの頃の窒息しそうな思い出から目を背けていたのかもしれない。

「ほとんど帰っていなかった。年に一回帰ればいいぐらい。音信不通にしている間、父親が腰のヘルニアで何回か手術をしていたんです」

自分ならばヘルニアに詳しい医師を紹介することもできた。なぜ相談してくれなかったのかと口惜しかった。町役場で働いていた父親は口数が少なく、人に頼ることを潔しとしない性格だった。忙しく働いている坂本に迷惑を掛けることはできなかったのだろう。

「術後の経過が良くなくて痛みがずっと残っているというんです。子どもが医者をしているのに、何もしなかった。本当に申し訳ないことをしたなと」

父親は他にも持病を抱えており、鳥取市の病院を中心とした入院生活になった。坂本は可能な限り時間を工面して、病室に顔を出している。とりだい病院で診察中、いよいよ厳しいという連絡が入った。

「外来(での診察)を始めちゃっていたんで、途中で辞めることができない。終わってから行きました。担当の先生が気を遣ってくれたのか、人工呼吸器などはそのままでした。最期を看取ることはできなかったんですが、意識がなくなる前、声を掛けたときちょっとだけ反応がありました。それだけでも良かったかなと」

小学校で登校拒否をしたとき、父親が学校まで付き添ってくれなかったらどうだったろうかと思うことがある。今となっては、わざわざ子どもを学校まで連れていくという手間の重みが良くわかる。その恩のある父親に不義理をしたというずしりとした痛みが残った。

「ぼくにとっては大きな存在だったんです。困っている人がいるとすぐに手を差し伸べる。特に女性とか子どもに優しい人でした。人がやりたがらないことを率先してやる。すごいなと思っていました」

入院中も最後まで父親に感謝の言葉をきちんと伝えられなかったという。

「大学病院などでは一人ひとりの患者さんと向き合う時間はどうしても少なくなってしまう。その中でもできるだけ話を聞いていこうと思うようになりました。できなかった親孝行を、病気で困っているお年寄りの方にできたらと」

山陰地区で、脳血管内治療を行う医師は限られている。大学病院の医師として、この地域の医療を継続していかなければならないという思いがある。後進を育てていくことが重要な仕事だ。若い医師たちには、自分と同じように他の地域に出かけて、知見を広げることが大切だと言い続けている。

「ぼくの世代で途切れたら、何のためにやっていたのかという風になってしまう。継続して高い水準を保たないと意味がないんです」

もちろんまだまだ自分の技量も磨いていかねばならないんですと付け加えた。そんな坂本の日々は多忙である。上司にあたる脳神経外科教授の黒㟢雅道は、「坂本は可能な限り、部下たちの手術に付き合っている、その責任感には本当に頭が下がる」と証言する。

彼の唯一ともいえる気分転換は走ることだ。

「週に2日か3日走っています。土砂降りの中を走りたくないので、天気予報を見ながら、その週の予定を組みます。ただ、決めた日が雨や雪でも走りますね」

治療と同じように、決めたことは絶対にやり抜くというのがぼくのポリシーなんですと微笑んだ。




文・田崎健太
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)『電通とFIFA』『真説・長州力』『真説佐山サトル』『スポーツアイデンティティ』(太田出版)など。小学校3年生から3年間鳥取市に在住。2019年、『カニジル』編集長に就任。2021年、(株)カニジルを立ち上げ、9月からとりだい病院1階で『カニジルブックストア』を運営中。

坂本 誠(さかもと まこと)
兵庫県生まれ。1991年鳥取大学医学部卒業。2002年鳥取大学大学院医学系研究科外科系専攻博士課程修了。医学博士。公立八鹿(ようか)病院、虎の門病院、松江市立病院などを経て、2005年より鳥取大学医学部附属病院。2016年4月より現職。