鳥大の人々
手術部 看護師 周藤 美沙子
「〝その他大勢〟が多分好きじゃない」から進んだ周麻酔期看護師の道

写真・中村 治


「周麻酔期看護師」―日本においてはまだ認知度も低く、全国的にも人数の少ない職種である。
麻酔に関する高度な知識と技術を持ち、麻酔管理を安全に実践するスペシャリストだ。
手術件数の増加に加えて、緩和ケアの普及などにより麻酔科医不足は深刻化している。
そのため、麻酔科医と協働する周麻酔期看護師の必要性は高まっている。


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2015年2月、横浜市立大学医学部麻酔科教授の後藤隆久は、横須賀米海軍病院を訪れていた。横浜市立大学附属病院と横須賀米海軍病院は目と鼻の先である。しかし、日本の中の〝アメリカ〟であるこの病院に入るには、パスポートの提示が必要であった。休憩時間、研修グループの中にいた若い女性が近寄ってきた。女性は鳥取大学医学部附属病院から来たと自己紹介した。彼女——周藤美沙子はまっすぐな目でこう続けた。

「鳥取で周麻酔期看護師は無理ですかね」

後に横浜市立大学附属病院の病院長となる後藤にとって、麻酔科医不足は喫緊の課題だった。アメリカでは麻酔技術を習得した麻酔看護師は病院で欠かせない専門職の一つである。特に若く健康な人間の多い、日本に駐留する海軍では、麻酔は麻酔科医ではなく看護師に任されていた。その現場視察が目的だった。

2010年に聖路加国際大学大学院修士課程で周麻酔期看護師の養成が始まっていた。しかし、医師の領域を侵すと捉えられていたこともあったろう、麻酔科医たちからの反発があった。

「麻酔は何もなければ、安定した医療。しかし、ちょっとしたことで患者さんが脳障害を起こしたりする可能性もある。トラブルが起こったときは大変なんです。そこまで看護師が責任をとる覚悟があるのかということなのでしょう。ただ、現場で苦しんでいる患者さんを目の当たりにして、自分で鎮痛ができればいいのにって思っている看護師も少なくない。医学とはサイエンス、看護は患者側に寄り添ったケアという面もある。それぞれの立場でやれることがあるはずなんです」

わざわざ研修のため米子から出てきたという、周藤の思いを後藤はひしひしと感じた。

周藤は1987年に島根県出雲市で生まれた。警察官だった父親の仕事の関係で、広島市、松江市、津和野町などを転々とした。看護師を目指したのは松江東高校時代のことだった。

「母親は凄い倍率を勝ち抜いて就職したのに、結婚して仕事をやめました。(育児が一段落して)再び、働くとなるとパートしかなかった。資格があれば仕事に戻れたという考えがあったのか、〝手に職(をつけなさい)〟って言われ続けていたんです」

幼なじみの母親が保健師をやっていたこともあり、医療の道に進むことにした。鳥取大学医学部保健学科看護学卒業後の2011年4月、とりだい病院に入職、手術部に配属された。

「手術部で3年目になって、だいぶ色んなことができるようになってきた。誰でもそうだと思うんですけれど、どうしてもここに必要だと言われる人になりたかった。オンリーワンとまではいかなくとも……」

少し考えた後、「私、〝その他大勢〟が多分好きじゃないんです」と言った。

「当時は、やる気が空回りしていたというか、後輩などに厳しい言葉を結構言っていたような気がします」

そんなとき見つけたのが、周麻酔期看護師だった。調べてみると、日本周麻酔期管理研究会(JSPAC)が台湾の台北栄民総医院への視察旅行を企画していた。内容を読むとJSPAC関係者向けのようではあったが、外部からの参加も不可ではないようだった。思いきって、周藤は参加したいですとメールを送ることにした。

「卒業旅行でヨーロッパには行ったこともありました。でも一人の海外旅行は初めて。現地のホテルで集合、みなさんとは初対面。オレンジ色のカバン持っているから見つけてください、みたいな感じでした」

2014年8月のことだった。

台北栄民総医院は台湾の基幹病院の一つだった。台湾は周麻酔期看護師の数が世界で一番多いこと、看護師が麻酔を担当、医師が管理していると教えられた。この時点で、周藤は麻酔に関する知識をほとんど持っていなかった。ただ、看護師が麻酔に携わっていいのかというぼんやりとした問いへの答えが欲しかった。

同行したJSPACの日本人関係者に恐る恐る聞いてみると、素っ気ない返事が戻ってきた。

「看護師にできるんだから、やればいいんですよ」

目の前の扉がさっと開いたような感覚だった。



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周麻酔期看護師への理解はほとんどない状態だった

この時点で周麻酔期看護師となるには、前出の聖路加国際大学の大学院に進学するしかない。とりだい病院を辞めて進学するのか、あるいは許可をとり籍をおいたまま進学するか。どちらにせよ、私立大学の学費、東京での生活費を考えれば現実味はなかった。

それでも台湾研修旅行は周藤の目の前に降りてきた細い糸のようなものだった。この糸を辿り、翌年には横浜米海軍病院の研修に参加、後藤と知り合った。後藤からは聖路加国際大学以外でもいい、どこか大学院に進学して麻酔の勉強をした方がいいという助言を受けた。

しかし、とりだい病院でも周麻酔期看護師への理解はほとんどない状態だった。手術部師長の森田理恵に付き添ってもらい、麻酔科教授に大学院進学を相談した。しかし、「うちでは(周麻酔期看護師として使うことは)絶対にできない」という答えだった。周藤は悔しくて、看護師長室で大泣きした。それを聞いた後藤は担当教授に会って、必要性を説明すると言ってくれた。すでに横浜市立大学附属病院では、聖路加国際大学の修士課程を終えた2人の看護師が勤務していたのだ。

2015年5月末、周藤が神戸で開催された日本麻酔科学会に行くと、後藤から横浜市立大学大学院で周麻酔期看護師のコースを設立すると教えられた。そして後藤は「(受験)勉強しておいてね」と冗談っぽく付け加えた。

母親に大学院進学を検討しているのだと伝えると渋い顔になった。

「普通(の看護師)でいいじゃんって言われて。普通の看護師で普通に結婚して何が不満なのって。でも私は、普通なんて面白くないって思っていたんです」

そして後藤から送られてきたメールを見せた。

「200人ぐらい麻酔科医がいる大病院の先生が、田舎の一看護師にメールをしてくれてるんだよ。なるんだったら、今なんだって説得したんです」

心強かったのは、後に看護部長となる師長の森田が背中を押ししてくれたことだった。森田の同級生が聖路加国際大学のコースを修了、周麻酔期看護師となっていた。その将来性を感じていたのだ。

6月、後藤と会ったとりだいの麻酔科教授が大学院修了後の受け入れを快諾。当時の看護部長、中村真由美にも受験の許可をとった。大学院入試は8月25日、時間はなかった。難関は英語の試験だった。

「朝5時からオンラインの英語レッスンを毎日予約しました。10分前とかに起きてパソコンの電源立ち上げて、30分のレッスン。その後、一人で英語の勉強。8時ぎりぎりになって家を出て病院に行きました。仕事が終わったらまた勉強です。仕事との両立で大変だった? いや、行きたい気持ちが強かったので大変じゃなかったです」

後藤は周藤をこう評する。

「すごい勉強したと思います。彼女は優秀、頑張り屋ですよ。そして狭き門を勝ち抜いた」

シー・イズ・グレートと英語で大きな声で言った。

横浜市立大学のある神奈川県、金沢八景での大学院生活は多忙だった。周藤は論文を書いた経験もない。そもそも論文の読み方も分からなかった。まずは図書館に行き、関係のありそうな文献を片っ端から読み漁ることから始めた。食事はほぼすべてコンビニエンスストアで済ませた。料理をしている時間がもったいなかったのだ。

「医学科の学部生の授業にも参加していました。事前に麻酔科の先生から取るべき授業をピックアップしてもらっていたんですが、あれも受けたい、これも受けたいって思うと増えてしまうんですよね。夕方からは看護の授業。朝8時半から夜9時ぐらいまでずっと授業。空いた時間に研究をしていました。一期生として頑張らないといけないという思いがあって、36時間寝ずに勉強、研究していたこともあります」

追い込まれたら、人ってこんなに起きてられるんだって思いましたと他人事のように笑った。

2018年3月、周藤は大学院の前期修士課程を修了し、とりだい病院に戻った。

最初はどこまでやれるのかという周囲の視線を感じたという。まずはちょっとした麻酔科医の手伝い、そして手術時の急変時の対応などを経て、自分の居場所を見つけていった。

「(手術中)すごく出血があったとき、私は麻酔科医でもなく、手術室看護師でもない。ただ、麻酔科医を理解して、助けることができる。麻酔科医の代わりに、あれが必要、これが必要という指示を出すことができる。それで少しずつ信頼してもらったような気がします」

現場での受け入れの難しさは、横浜市立大学附属病院の後藤が体験していた。

「日本の麻酔科医の頭の中には、看護師が麻酔をできるというのはなかったと思います。医師だけでなく、それ以外の職種からも大丈夫かという声があがっていた」

横浜市立大学附属病院では周麻酔期看護師を採用した初年度、周麻酔期看護師が関わるすべての麻酔に後藤が立ち会った。周麻酔期看護師の力量を自分の目で見極めるためだった。

「周麻酔期看護師はみなさんの、我々のパートナーになる人たちです。私が一年間一緒にやって肌身で分かりました。私を信用して一緒にやりましょうという説明をしました」

だからこそ、先達がいなかったとりだい病院で周藤が苦労したであろうことは手にとるように分かる。それを踏まえた上でこう続ける。

「とりだい病院も同じですが、病院の職員の半分は看護師。病院の文化は看護部が左右すると私は思っているんです。向学心に溢れて、研究心があって論文を書こうという看護師が増えれば、医師も尻を叩かれて、自己研鑽せざるをえない。病院全体がそういう雰囲気になれば、多職種で研究が進み、新薬や医療機器の開発にも繋がるはずなんです」

周藤は今年4月から、鳥取大学大学院医学研究科医学専攻博士課程に進んでいる。もちろん、周麻酔期看護師との勤務を続けながらである。

「現場に即した研究をして、それを論文にするとみんなが読むことができる。英語にすれば全世界の人に見てもらえる。それが患者さんへの恩返しになるんじゃないかって考えています」

「ほんとやりたいことがありすぎて、やる気を持て余しているんです」、と周藤は明るい声で笑った。



文・田崎健太
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)『電通とFIFA』『真説・長州力』『真説佐山サトル』『全身芸人』『ドラヨン』『スポーツアイデンティティ』(太田出版)など。小学校3年生から3年間鳥取市に在住。2019年、『カニジル』編集長に就任。

周藤美沙子(すとう みさこ)
鳥取大学医学部保健学科看護学専攻卒業、鳥取大学医学部附属病院入職(手術部配属)。 2018年3月 横浜市立大学大学院医学研究科看護学専攻博士前期(修士)課程修了(周麻酔期看護学分野) 。鳥取大学において特定行為研修受講(特定行為研修1区分、6区分)。