鳥大の人々
感染制御部 千酌浩樹・上灘紳子
とりだい病院には新型コロナウイルスを持ち込ませない

文・田崎 健太 / 写真・中村 治


千酌浩樹・上灘紳子

新型コロナウイルスの感染拡大はいまだ収束の兆しが見えない。8月12日時点で鳥取県の累計感染者は21人。これは7人の岩手県に継ぐ少ない数字である。特にとりだい病院のある県西部では感染を抑えているといってもいい。ただし、一帯の基幹病院であるとりだい病院は、今も厳しい警戒態勢を敷いている。その内側を感染制御部の千酌と上灘に聞いた。



これはいけん、やばいウイルスに違いない。

鳥取大学医学部附属病院感染制御部の千酌浩樹は心の中で呟いた。
昨年12月に中国湖北省武漢市で新型コロナウイルス(COVID−19)が発生、1月23日、武漢市当局は、感染拡大を防ぐため公共交通機関を一時閉鎖すると発表。多数の中国人が国内外を移動する旧正月――春節を前にして街を閉鎖したのだ。

千酌はこう思ったのだと振り返る。

「これは(中国政府の)本気だ。まだ出てこない情報が山ほどあるに違いない」

この時点で日本の危機感は薄かった。1月末の段階で、日本、タイ、香港などの15カ国で感染例が報告されていたが、その多くは武漢市からの旅行者。日本の感染者数は十数人で軽症。通常のインフルエンザと同等、あるいはやや強い程度という認識だった。

千酌の疑念が裏付けされたのは翌2月上旬のことだった。アメリカが14日以内に中国本土を訪問した人間の入国を禁止した。アメリカ疾病予防管理センター(CDC)は重要な情報を掴んでいるのかもしれない、だからこそこれだけ迅速に行動したのだと感じた。

直後の2月17日、武漢の研究者が『The Epidemiological Characteristics of an Outbreak of 2019 Novel Coronavirus Diseases(COVID−19)』という論文を発表した。それによると2月11日までに陽性反応した患者44672人のうち、80.9パーセントが軽度の症状だという。

「8割が軽症だとされていましたが、逆に言えば2割は重篤化するんです。ぼくは30年間、呼吸器内科をやってきましたが、2割も重篤化する肺炎って知らない。ぼくたちからすればとんでもない話なんです」

この論文には年齢別致死率の数字も記されていた。50から59才までは致死率1.3パーセント。しかし、60から69才になると3.6パーセント、70から79才は8.0、80才以上は14.8パーセントに跳ね上がる。

「若年者は重篤化しないというのはあるかもしれないと思いました。ただ、ぼくたちは子どもだけを相手にしているわけではない。今の日本では60才以上って働き盛りなんてす。その年代が重症化する肺炎を流行らせてはならない」

2017年時点で鳥取県は人口の30.4パーセントが65才以上という高齢県である。このウイルスが万が一、県内で広がったら大変なことになる。一帯の基幹医療機関である、とりだい病院として徹底的に策を講じる必要があった。千酌は病院長の原田省と話し合うことにした。

「私は本当に悲観的なことしか言いませんでしたね。これはまずいですよと。ロックダウンまで行くかどうかは分からなかったけれど、普通じゃないものが流行ろうとしている。これを克服するにはワクチンか治療薬の開発しかない。それまで数年間は掛かる、と」

原田が千酌の提案を理解し、全面的に受け入れてくれたことが心強かった。とりだい病院では、ウイルスと接触する可能性がある医療従事者には空気感染を防ぐN95マスク、防護服の着用を徹底させることになった。

「この感染症が空気感染するかどうか。当時は空気感染する証拠はなかった。しかし、流行りだしてまだ半年も経たない感染症なんです。それに対して、違うウイルスの知見を持って来て、こうだなんて信じられない。ぼくは理科の人間だから論理を重視する。分かっていないから、いいですよという考えには従うことはできないんです。つまり、空気感染するか分からないのならば、するという前提で対応すべき。これは危機管理の問題でもあるんです」

絶対に病院に(新型コロナウイルスを)持ち込ませたらいけないんですと語気を強めた。



千酌浩樹・上灘紳子
未知の感染症はもう克服したという風潮があった

千酌は1960年に鳥取市で生まれた。父親の仕事の関係で中国地方を転々とし、米子東高校から鳥取大学医学部に入った。

「子どもの頃から生物、図鑑が大好きでした。人の身体、生物学的なことにすごく興味があった。(医学部を)卒業するとき、人の身体を探るには何がいいかって考えていたときに、丁度PCR(法)が医療の領域に入ってきたんです」

PCR法とは、アメリカ人のK・マリスが発明した遺伝子増幅技術の一つである。マリスはこれにより93年のノーベル化学賞を受賞している。

調べたい遺伝子のDNA配列に、短いDNA(プライマー)をつけて、酸素の動きと温度の上下によって増やす。増えたDNAを特殊な装置に入れると、目視での確認が可能になる。検体の中に、増やしたい遺伝子が増えていれば〝陽性〟、なければ〝陰性〟判定となる。

このPCR法の使用は、DNA配列が分かっている場合に限られる。

「当時はヒトの遺伝子がまだ全然分かっていなかった。ようやく細菌の遺伝子が解明された頃でした。細菌の遺伝子がプライマーを使ったPCRで検出できるようになった。ぼくはPCR、つまり分子生物学をやりたかった」

2001年から2003年まで千酌はワシントンDCの郊外にあるアメリカ国立衛生研究所に留学している。

「そのとき丁度、ヒトのゲノムが解析されたんです。それからがん治療が急に変わっていった。そこでヒトの色んな細胞の基礎研究をやりました。最近まで、がんの研究と感染症の二刀流だったんです。正直なところ、一時期、がんの方に寄っていた時期もあります。感染症っていうのは(医学研究対象として)細っていた。未知の感染症はもう克服したという風潮もあった」

新型コロナウイルスの前は、感染症にほとんどの人は興味なかったじゃないですか、と笑った。
感染症とは病原体が身体の内部に入って症状が出る病気のことを指す。風邪も感染症の一種である。

「感染症の特徴って、ヒトだけでなく病原体のことを良く知らなければならない。そして感染するのは一つの部位ではない。全身の臓器に通じていなければならない。微生物とゼネラルな医学知識が必要とされることに面白さも感じた。がんはずっと研究している方もいたので、(最終的には)感染症で行くことにしたんです」
千酌が部長を務める感染制御部は、診療科を越えた横断的組織だ。医師、看護師、薬剤師、臨床検査技師、事務員で構成されている。

感染制御部で千酌の右腕とも言える存在が、看護師の上灘紳子である。

米子市生まれの上灘は、鳥取大学医療技術短期大学(現・鳥取大学医学部保健学科)を卒業後、とりだい病院に入職した。

「私は現実路線というか、現実的に考えるタイプ。看護婦に憧れてとかそういうエピソードはなくて、(学校と病院が)家から近かったこと、そして仕事としてやれそうだから選んだという感じです」

最初の配属先は耳鼻科と脳神経外科の混合病棟だった。

「たまたま私が入った年、看護部長の方針で各病棟独自の強みを作ることになりました。私の病棟では感染対策の強化でした。あなたも活動グループに入っておきなさい、みたいな感じで強制的にメンバーへ入れられました」

1980年代半ばから、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)などの院内感染が報告されていた。MRSAは肺炎、腹膜炎、髄膜炎などの重症感染症の原因となる。

「私は新人だったのでよく分かりませんけれど、当時は耳鼻科の患者さんの痰からMRSAが検出されることが多かった。そのため感染対策に選ばれたのかもしれません」

感染対策の活動グループでは、勉強会を開き、ニュースレターの発行、病棟内の手順の見直しなどを行った。感染対策はどの科に行っても必要になるだろうと、高次集中治療室(HCU)に異動した後も勉強を続けていたという。2007年、とりだい病院内に感染制御部を立ち上げることになり、感染管理認定看護師の資格を取得。認定看護師とは、特定分野に熟練した看護師に日本看護協会が与える資格である。感染管理分野は2001年8月に認定された。上灘は七期生にあたる。

上灘は今回の新型コロナウイルスの第一報に接したとき、2009年春の新型インフルエンザを思い出した。



感染症指定医療機関となったとりだい病院

代表的な感染症の一つ、インフルエンザは、ウイルスが体内で増えて熱や喉の痛みの症状を引き起こす病気だ。気道で局所感染し、強い咳を伴うため、多数の人々に感染が広がる。遺伝子に変異が起こりやすいため、以前の感染で作られた免疫抗体では対応できず、毎年流行するのが特徴である。

2009年5月9日、成田空港の検疫で新型インフルエンザの患者が検知され、兵庫県と大阪府内の高校を中心に集団感染が明らかになった。

「厚生労働省の大臣だった舛添(要一)さんが真夜中でも何度も会議を開き、膨大な資料が県や厚生労働省から送られてきた。必要な部分だけ選んでかみ砕いて書いたものを、病院内で共有しました。幸い、死亡率は低くて、結果的に(山陰地区で)深刻な影響は出ませんでした。ただ、その間は普段の仕事が手に着かず、全部後回しにしていたので、通常の仕事に戻るまで一年ぐらい掛かりました。もしかしてあのときのようなことが起こるのかなと思いました」

2009年時点と変わっていたのは、とりだい病院が2類感染症を受け入れる第二種感染症指定医療機関となっていたことだ。

2類感染症とは、空気感染のない結核、重症急性呼吸器症候群(SARSコロナウイルスに限る)、鳥インフルエンザ(H5N1)などを指す。

「新型インフルエンザのとき、第二種感染症指定医療機関は(鳥取県)西部地区では済生会境港病院だけでした。そこに当院から医師を派遣するなどの協力をしました。その後、地域の基幹病院として大学と一緒に地域の医療を進めるために、感染症病床を2床整備することになったのです」

感染症病床の整備は2種感染症医療機関の条件である。とりだい病院の感染症病床は、空気感染の可能性のある1類感染症に対応する基準で作られている。いわば過剰品質だ。

病室は病原体が漏れないように気圧を下げる『陰圧室』となっており。個室に繋がる小部屋である『前室』が設置。空調設備には、病原体が飛散しないように特別なフィルターが取り付けられ、床の材質、仕上げなどなども厚生労働省の基準を遵守している。

「人が扉を開けて出入りすることによって空気が動きます。前室があることによって、廊下側との空気の行き来が抑えられる。(感染症病床は)たった2部屋かと思われるかもしれません。ただ、普段は全く使わない病床。そして普通の病床よりも維持費が掛かる。そのため無暗に増やすことはできないのです」

感染症病床は普段使っている病棟と勝手が違う。新型コロナウイルス対策のため、看護師を集めて感染症病床での患者受け入れの訓練を始めた。

「どこになにが置いてあるのか、どこまでが清潔なエリアなのかということを把握しなければなりません。そして全病棟で標準予防策を確認しました。手洗い、消毒といった手指衛生。そして血液、体液、あるいは痰などが曝露する可能性がある処置時の防護服着用。特に重要なのは、いかに防護服を丁寧に脱ぐか。脱ぐときに慌ててしまうと、防護服の表面についているウイルスを自分自身につけてしまう。職員自身の感染のリスクにもなりますし、そのウイルスが手指衛生をすり抜けて他のエリアに広まってしまう可能性もあります」

新型コロナウイルスに感染していることに気がつかず、外来患者が来院する場合もある。外来診察体制の見直し、患者数が増えた場合の対策も練った。検討事項は山積みだった。



千酌浩樹・上灘紳子
「PCR検査」「抗原検査」「抗体検査」

山陰一帯で高度医療を提供するとりだい病院の活動を新型コロナウイルスで止めてはならないと千酌はいう。

「新型コロナウイルスに罹患している可能性の高い方を迅速に診断する、病院独自の仕組みを作り上げなければならないという結論でした。検査さえすれば、感染している方にも、感染していない方にも、感染予防に配慮した医療を提供することができる」

新型コロナウイルスの検査には、PCR検査、抗原検査、抗体検査の3種類がある。PCR検査と抗原検査は、身体に感染したウイルスそのものを検出。抗体検査はウイルスに反応して身体が作る物質―抗体を検出する検査である。新型コロナウイルスには前者2つがより有用性が高いとされ、PCR検査の方がより敏感に、そして高精度で病原体を検知する。そのためとりだい病院ではPCR検査に力を入れている。

ただし、PCR検査は、熟練した臨床検査技師に頼る過程が多く、検査数が限られる上に結果が出るまでに時間がかかっていた。とりだい病院では、4月に前処理だけを自動化する拡散抽出機を、8月からは全ての過程を自動化した「全自動PCR機器」を導入して、検査数を増やしている。現時点で一日最大100人の検査が可能だ。

この原稿を書いている(8月12日)時点で感染者7人の岩手県に続いて、鳥取県は2番目に感染者の少ない県である。特にとりだい病院のある鳥取県西部の感染者数は東京からの訪問者1人を含めて2人のみ。
それでも千酌は警戒を緩めていない。

「ぼくたちは毎日PCR検査を沢山していますが、全然出ない。この一帯は安全じゃないかとは思っています。現状ではリスクはない。問題は今後ですね」

ワクチンは開発されていないが、知見は蓄積しつつある。人から人へとウイルスを運ぶのは、飛沫、あるいは手の接触が主であることが判明した。

飛沫は、会話、咳などで飛び出し、1、2メートル以内にいる対面する人の目、鼻、口の粘膜に付着し、感染が始まる。この対策はマスクである。手の接触には手指衛生――アルコール消毒、手洗いが有効である。

「アルコールはすごくいい消毒薬なのですが、きちんとまんべなく刷り込まないといけないです。つまり手の隅々にまで塗り広げないといけない。だいたい10秒から15秒と考えて下さい。手洗いも同じ。おまじないのように、ちゃっちゃっと洗っているのでは駄目です。20秒程度、手首まで掌の表裏、丁寧に洗うこと」(上灘)

マスクをすり抜けてしまうほど細かい、ウイルスを含む塵埃――ちりやほこり、気管内挿管などの医療処置による(霧状の)エアロゾルを吸い込み、肺胞で増殖する可能性はあるが、それ以外はこの二つでほぼ防げると考えていい。

特に手洗いは日々の習慣として軽んじられがちではあるが、科学的な根拠がある。

ウイルスの多くに共通しているのは、感染した細胞から外に出るとき、〝宿主〟の脂質膜を剥ぎ取って「エンベロープ」を作るという性質だ。エンベロープがウイルス粒子の最も外側を包み込み、新たな〝宿主細胞〟に融合、侵入する。

このエンベロープはリン脂質で出来ているため、その構造を壊してしまう界面活性剤、つまり石鹸に弱い。インフルエンザ、そして新型コロナウイルスはエンベロープを持つため、石鹸が効果的なのだ。



正しい情報を手に入れること、理知的に判断すること

感染症の専門家である千酌は自らに厳しい行動制限を課している。

「ぼくは(感染の可能性が高いとされている)閉所、スポーツジムやライブハウスのようなところには行かない。集会は100人以下。集会を主催する場合は、定員の50パーセント以下というのがとりだい病院の基準です。正直なところ感染対策と経済をどう両立すればいいかは分かりません。私ができるのは科学的にはこうです、と言うだけ。医学者は、経済を忖度するべきではないと思うんです」

医学的見地に基づいた意見、経済学者からの意見を最終的に政治が判断するのが正しいありかただろう。そして、各自が自分の生活、仕事形態に合わせた論理的な行動をすることが大切だと千酌は考えている。

「例えば、一人で車に乗っているとき、風が吹いていて開けた場所を歩くときはマスクをつける必要はないと思うんです。ただ、店などの密集したところに入るときはマスクをつける。スポーツジムについても、もし自分がジムの経営者ならば、できるだけ風通しをよくして、予約制にして人数制限します。それぞれが治療方法が定まるまでは新型コロナウイルスと共生するしかない」

現時点ではこのウイルスの全貌は分かっていない。

ウイルスを過度に恐れて生活を止めてしまえば、別の形で社会は崩壊するだろう。現時点で我々は新型コロナウイルスを受け入れるしかない。日々更新される正しい情報を手に入れること、そしてその情報を理解し、自らの立場に合った理知的な行動を取ることが必要なのだ。



文・田崎健太
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)『電通とFIFA』『真説・長州力』『真説佐山サトル』『全身芸人』『ドラヨン』など。最新刊は『スポーツアイデンティティ』(太田出版)。小学校3年生から3年間鳥取市に在住。2019年、『カニジル』編集長に就任。

千酌浩樹
鳥取大学医学部医学科卒業後、鳥取大学医学部附属病院に入職。米国国立衛生研究所留学などを経て、2014年より現職。その他にも高次感染症センター長、感染症内科科長、病院長特別補佐(患者サービス担当)を兼任。

上灘紳子
鳥取大学医療技術短期大学卒業後、1994年に看護部に入職。脳神経外科・耳鼻咽喉科病棟、高次集中治療部高次治療室(HCU)を経て、2006年より感染制御部に配属。2007年に感染管理認定看護師資格取得。看護師長。